6

 

 魔動船ヘリオセントリック号は大海原を真っ直ぐに、疾風の如く駆け抜けていた。
 船上に居る者は皆、己の足場を確保するのが精一杯でその様子はさながら生まれたての子馬であった。
 ユーナは甲板にへばり付いて起き上がれないでいる。
 甲板を貫いて両の脚を固定しているヒコを視界の端に捉えながらも、ユーナは始め船員の誰一人として機関部に居るであろう動力源のラティアを止めに行こうとする者はいない。
 船首にて手摺りに確りと掴まるレオも然り。暗雲立ち込める魔の海を目の前に、その表情は険しい。

 周囲は、否、その海域一帯が魔物で埋め尽くされていた。

 スカラの呪文を至る所に刻み込まれた船体が硬度と質量と速度を兼ね備えて突撃する時、もはや海を飲み込む一体の獣と化した魔物の群れを切り裂き進む神の槍となる。
 特に念入りに補強された船首が、海から顔を覗かせるマーマンの群れを轢き潰して藻屑に還す。
 魔物達に反撃する時間はおろか、強襲する暇さえ与えない。
 肉と骨の拉げる音が連続し雑音となり、ユーナは顔を顰めてそれに耐えるしかなかった。
 船の側面では夥しい魔物の顔が残像を残し、数秒の後には後方へと過ぎ去っていく。この速度でなければ捕縛されてしまっていた、とユーナはラティアに文句を言おうとしていた事を思い出し鳥肌をたてる。
 船体が風を切る騒音の中、ヒコが船の進路上を指差し何か訴えているのにユーナは気がついた。
 もう少し声を大きくしろ、とユーナは身振り手振りで伝える。ヒコは了解したようで、その小さな身体で大きく息を吸い込んだ。
 「前! 空からまものがくる! ていうかもうきてる!!」
 ヒコの大声は甲板に居る全員に届き皆がその視線を前方に向けると、中空から何かが飛来し船の近くに水飛沫を立てて落下した。船の相対速度も相まってユーナにはそれが何なのか視認できなかった。
 ユーナは見えたか、とヒコに訴える。
 「なんか! 岩! 顔っぽいのがある岩! でかい鳥がはこんでる!」
 ユーナを含め、その知識がある者達は肝が急激に冷えていくのを実感した。
 爆弾岩。人面を有する岩石の魔物。恐ろしいのは、それが爆発する特性を持ち、小さな村ひとつを壊滅させる程の威力を秘めているからである。普段は温厚な性格だが、何かしらの刺激で闘争本能が剥き出しになり爆発する危険性が一番高くなる。
 それは魔物にとっても諸刃の剣である筈なのに、とユーナは犇く異形達の狂気に顔を引き攣らせる。
 魂。
 船の通り過ぎた後方でラティアのイオナズンもかくやと轟音が響き、爆発に巻き込まれた魔物の肉片諸共巨大な水柱が立つ。次々と飛来してくる爆弾岩がヘリオセントリック号を外れ、連続して赤に染まった水柱が立ち上る。
 「何時当たるとも知れんぞ!」
 誰かが叫ぶが、どうしろと言うのだ、と皆策はないのかと顔を合わせる。
 「いっぱいきた!! ドまんなか! ひとつ!」
 ヒコが叫ぶと、ユーナは駄目元で練っていた魔力を開放し魔法を生成する。今のユーナに精一杯できるだけの魔法。
 (これで駄目なら・・・)
 その先の想像を振り払ってユーナはヒコに檄を飛ばす。
 「おまえ! あれに向かって飛べ! 当たればどうせ死ぬんだ! 一か八かだ! 正面から両足で受け止めろ!」
 「よっしゃあ!」
 ヒコは本当に心臓に毛が生えているのではないかとユーナは彼女の豪胆さに呆れる。
 幾つかの爆弾岩が船を掠め、四方から鼓膜を破らんばかりの爆発が続く。
 景色が一面炎色に包まれた。
 急接近する死に向かって、ヒコは膝を曲げ両足の裏を差し出して前方に飛び上がる。不敵に笑う爆弾岩の顔を捉えようとした瞬間、ユーナは風陣魔法バギをヒコと爆弾岩の間で生成する。
 渦巻く大気を圧縮した緩衝材が両者の激突を柔らげ、ヒコの脚の裏がそっと魔物に接する。
 「横へ飛ばせ!」
 ヒコは身体を捻り、右方へ爆弾岩を受け流した。間を置き、右後方から魔物の悲鳴と爆音が響く。
 ユーナは咄嗟に立ち上がり、空中から後方へと慣性を失い飛ばされて行きそうなヒコの腕を確りと掴み船上へと引き戻す。
 「あっぶ、あっぶねー! 死ぬかとおもった! へ、へへへ」
 動悸する心臓を押さえつけながらユーナに背を預けているヒコが力なく笑う。
 助かった、と甲板の海賊達が雄叫びを上げる。船首で死を覚悟していたレオは、心なしか周囲の魔物から戦意が薄れていくような気がした。
 ユーナは深く息を吐いた。
 「・・・よくもまぁ僕の事を信じようという気になったな」
 「だってユウあたまいいじゃん。あたしはバカだからさ、どうせならキミに命あずけたほうがよっぽどおトクだって思っただけ」
 ユーナは戸惑う。
 「それより、まだ爆弾岩は落ちてきそうか?」「だいじょーぶみたい。さっきのでおしまいかな」
 前方を見通すヒコを押し退け、ユーナはレオへ状況はどうかと訊ねる。
 レオは望遠鏡で前方を確認すると、握りこぶしから親指だけを突き出し歯を見せ満面の笑みで応えた。
 「もうすぐ抜ける! 俺達の勝利だ!」
 歓声が沸き上がり、それが船内にも届いたのかラティアの世話をしていたアンリが顔を出して辺りの様子を窺う。
 「なんだい・・・もしかしてあたいらやっちまったのかい? あ、あの海域を突破したって云うのかい!?」
 甲板の熱気がアンリにも伝導し、興奮で顔が上気する。
 「そうと決まれば、あと一息、ラティアにめいっぱい本気出してもらわなくっちゃね!」
 誰の返事を聞く暇も無く船内へアンリが姿を消すと、ユーナがこの日二番の危機を感じて大きく息を吸い込む。
 「伏せろおおおおおお!」
 鬼気迫る叫びに反射的に皆が身体を船体に貼り付けると同時、 風圧で唇が踊る程の加速でヘリオセントリック号はあっという間にサマンオサ東海岸を北へと突き抜けていった。
 陽がサマンオサ大陸の向こうに沈もうとしていた。
 普通ならば早くても一週間はかかるであろう航路を、魔力で動く船は二日で踏破した。
 彼らはまだ知らない。
 流浪の研究術士が生み出した発明が後世にて研鑽を重ねられ、世界各国の距離を縮め、人々の世界観を覆し、更なる発展を遂げる為に無くてはならない物になる事を。
 ただ、それが認められる時代にリレオレイという人間は物言わぬ肖像として歴史書の一頁で佇んでいるのであった。

 

 

 サマンオサ東海岸を抜けて三日、低速とはいえ普通の船よりは幾分も上回る速度で一行は行商人ナスプの町へと着実に歩を進めていた。
 ラティアは丸一日魔力を行使し続けた代償で疲労困憊に陥り船室でだらだらと過ごし、残る二日は交代で魔力を注ぐ以外にやることも無く更にだらだらと過ごした。
 魔物に遭遇しようが問答無用の速さで逃げ切る魔動船の甲板は組み手で体術を身に着けるにはうってつけの安全地帯で、ユーナは日がな一日ヒコが飽きるまで身体を動かした。
 相手に合わせて足を運ぶ程度ならできるようになった、とユーナは数週間前までの自分と比べ満足する。しかし、急激に踏み込まれると肉弾戦だとどうしようもなくなる。
 (やっぱり、その辺は魔法でなんとかするしかないよな)
 ピオリムで移動速度を高めながら、ユーナはヒコの動きを予想し観察し周期を頭に叩き込む。身体の向き、足運び、次の体勢から放たれる攻撃にアタリをつけユーナはわざと足を払われる。
 ユーナの体勢は崩れない。バギの風圧で身体を支え、ヒコの予期していないであろう方向へと拳を振るう。
 ヒコはそれを払い除け、返す拳をユーナの腹部へ放ち寸前で止め衝突を避ける。
 (またやられた・・・)
 ユーナは今の作戦の何が悪かったのだろう、と渋い表情で疲れた身体を壁に預ける。
 「こーげきするトコ見すぎ。これ今回のはいいん」
 目線で攻撃を知らせているのだとヒコは体力の無い遊び人を見下ろす。ユーナは納得すると同時に、それを自覚していなかった自分に苛立ち悔しさを露にする。
 ヒコはユーナと対峙する度に彼のその表情を何度か見てきた。最初から完璧であろうとする心意気は理解できるが、どう足掻いたって先達にすぐ追いつくには時間がかかる。そうヒコが諭すこともあったが、ユーナは『甘えだ』と一蹴して問題解決の為の思考に耽る。
 (ユウのこーいうトコ、めんどーなんだよね。マジメなのはいいんだけどさ)
 ユーナが現実へ戻ってくる間、ヒコは手持ち無沙汰になる。
 ヒコは在りし日に武闘家シェンから習った型を思い出し、一人気を練りながら動きを浚う。型をひとつ終え、ヒコは今まで見せたことの無い沈んだ表情で自分の掌を見つめる。
 (ユウはけっこーのみこみいいから、どんどんのびている)
 だがヒコは自分が成長を感じなくなってきた事に焦りと不安を抱えていた。気の鍛錬ですら、今以上の力が出せないままでいる。
  理由はヒコにも分かっている、付くべき師がいないのだ。ジパングで手習い程度に教わった拳法の型と我流の戦闘では頭打ちになることは予想していた。予想より早くそれが訪れた事が、ヒコの武闘家としての誇りを鉋で削るように薄く薄く磨り減らしている。
 ヒコはジパングを密かに出立する前に父親から言われた言葉を思い返す。
 半端な覚悟と半端な力で救えるほど世界は甘くない。
 奥歯を噛み締めても噛み千切る事のできない事実を溜飲もせず舌の上で弄ぶしかないヒコは、苛立ちを込めて気を乗せた拳で空を切る。
 虚しく風が鳴く。中途半端に練られた気が、方向性を不確かに霧散する。
 「おい」
 急に声をかけられてヒコは身体を竦ませて驚いた。声の先ではユーナが怪訝そうな表情でヒコの顔色を窺っている。
 「どうした、気分でも悪くなったのか。今日は終わりか?」
 少し皮肉が込められているがユーナの気遣いに少し救われて、ヒコは力無く微笑んだ。
 「そだね、今日はちょっとちょーしわるいみたい。少しよこになってくるよ」
 言うなり、船内へと引込んでいったヒコの後姿をユーナは見送り、不審そうに顎に手を遣った。
 「何か悪いものでも拾い食いしたか、あいつ」
 急にやることの無くなったユーナは懐から魔導書を取り出し、再び思考の海へと潜ることにした。

 

 

 これが創立一年と少しの町か、とユーナは寄港する船上からナスプバークを眺め、その隆盛ぶりに肝を抜かれる。
 ランシール東港やルザミ港のように喫水が深い船は沖で碇を下ろす必要は無く、直に入港し波止場で足場を渡して下船できるよう工事されている。
 「ていうか、小型艇はどうしたのよ!? 碇下ろすようだったらどうするつもりだった!」
 「いやー、本船造るのにかかりっきりでさ」
 「その際は泳げばいいだろう?」
 無事船から降りたユーナはラティアに頭を叩かれているアンリとレオを一瞥し、再び目の前に広がる新天地に心を奪われる。
 古い歴史を持つアリアハンですら、ここまで栄華と云う言葉を具現化したようなナスプバークの前では色褪せてしまう。
 「・・・いや『新しいからこそ』か」
 世界各国の建築物を寄せ集めたような異国文化入り乱れる町並み。各国毎に居住区が分かれているようで、また道行く人々の人種も雑然としている。
 ユーナは街中に水が引かれているのに気が付きラティアに訊ねる。
 「あれは上水。この辺は地下水が無いから、高台の湖を大きい水溜りにして水門を設けて生活用の水を供給してんのよ。ちなみにそこの蓋してあるのは下水。排泄物や排水を大きい肥溜めまで流してくれるわ。で、その溜まったばっちいのは農業用の肥料として処理されるのよ。まぁ実際に機能しているかどうかは知らないけどね」
 聞きかじった話だ、とラティアは町を見渡す。
 「しかし、また大きくなってるわねー。ナスプがこき下ろされてからも色々やってんのね」
 「今さっきそこで盗み聞きしたんだけど、近々カジノも建てるらしいね」
 アンリの情報にラティアは含みのある返事だけを返す。
 他国の支配権の及ばない場所だからといって好き勝手しすぎではないかとユーナはこの町の将来を危ぶんだ。
 ヒコがユーナの袖を引く。
 「ね、そのナスプって人ほんとーにこの町にいるの? なんかさっきラティアさんへんなこと言ってたじゃん」
 「どうなのラティア」
 「あ?」ラティアはわざわざそのような事を質問するな、とでも言いたげな様子で荷袋を数回振り回し肩に担いだ。
 「いようが居まいが関係ないわよ。いるんなら直接金借りるし、いなかったらいなかったで町長から借りて後から請求してもらうようにするわ。どうせ馬鹿みたいな利子つけてくるんだから、そこぐらい好きにさせてもらうっての。大体アイツは・・・」
 愚痴を零し始めたラティアにユーナは肩を竦めレオ達の方へ向き直る。レオとアンリも丁度今後の行き先について検討していたらしく、結論が出たようだった。
 「先ずは物資補給。測量に必要な物を買い揃え後数日はここで魔動船の整備をすることにした」
 「ここには創立初期の頃にしか足を伸ばしていないからね、観光がてら子分共の士気でも高めておくさ」
 アンリは体を伸ばし、さてどこから見て周ろうかとナスプバークを一望する。
 「その前にお前達に付いて町長に挨拶をしてこようか」
 レオが同行を願うと、アンリは手下達に揉め事だけは起こすなと警告し休暇を与える。海賊達は思い思いに町へと繰り出していく。
 話が纏まった所でラティアが腰に手を当て、あまり気乗りのしない様子で先頭に立つ。
 「んじゃ、ちゃっちゃと用事済ませるわよ」

 

 大通りは露店市が軒を連ねている。半ばまで歩くと池を中心とした公園が広がり賑やかさが増した。
 「いつの間に・・・」
 池の中心。ラティアが見上げるのは足元に噴水を携えた彫刻である。彫刻は鳥の姿を模しており、それは怪鳥とさえ呼べる程の大きさであった。
 「でけー」
 ヒコは口を開けて鳥の像を見上げる。ユーナは思う所があるようでラティアに耳打ちする。
 「ラティア、もしかしてこれ」
 「・・・ラーミアよ」
 噴水の袂には丁寧に看板が設けられており『神鳥の聖像』と銘が打たれている。
 その周囲には世界各地から旅をしてきた巡礼の僧侶達が群がっており、世界平和と大魔王ゾーマの滅亡を必死に願っている。側では僧侶の格好をした男が布施を募り、これで世界が救われる等と無責任な言葉を投げかけている。
 商魂此処に極まれり、とラティアはその方を見ようともせず呟く。
 「でも、あの露店の魔道具は本物みたいだけど」
 「だから余計に厄介なんでしょうが」
 嘆息してラティアは人混みに紛れそうになるヒコを捕まえる。暫らくして喧騒から逃れると、遅れてアンリとレオが這々の体で人垣をかき分けて来た。
 「なんだいありゃ、あんだけ店が並ぶんだから盗品の一つ二つ流れてると思いきや全部正規の商店じゃないか。どれだけの商人が集まってるのさ、流石に正気を疑うねこりゃ」
 一年余りナスプと一緒に旅をしていたラティアは、創立者の人脈のおかげだという言葉を喉元で押し留めて胃の腑に落とす。ナスプを弁護しそうになった自分をラティアは嫌悪した。
 「しかし、あの活気に慣れたら便利な町だぞ此処は」
 「順応性高いわね、アンタ」
 大通りを抜け、町の端の方に大きな屋敷がある。一見悪趣味な屋敷だが先代町長の頃から町の間口として利用されている為、ナスプバークの象徴とも呼べる建物である。
 ラティアは正面扉の金具でノックし、使用人が出てくるのを待つ。
 「ラティア、あとで市場の方見て行かない?」「いかない」
 取り付く島も無い。ユーナは少し面白くなさそうに柱に背中を預ける。通りの方を見てそわそわと落ち着きの無いヒコはがっかりした様子でユーナと同じ柱に凭れた。
 「・・・遅いね」
 一向に姿を見せない屋敷の人間にアンリは不審を表す。レオが再び金具を打ち鳴らすが、足音等の気配がこちらに向かって来ない。
 屋敷の中に人が居るであろう事を察しているラティアは痺れを切らし、勝手に扉を開け屋敷の中へと乗り込んだ。
 勝手知ったるとばかりに奥へ進んでいくラティアの後ろをユーナやレオ達は恐る恐るついて行く。
 玄関ホールを抜けて正面、閉じられた客間の扉の向こうから言い合う声が聞こえる。
 ラティアは力任せに扉を開け放つ。
 部屋には老人と若者、それと旅装の商人然とした男の三人が顔を合わせている。
 「ちょっと、さっきから呼び出してるんだけど誰一人姿を見せないってのはどういう事?」
 「おお、貴女様は! お久しゅう御座います」
 ラティアの姿を認めた老人がラティアの手を取り再会を祝う。ラティアは軽く握り返すと、事態の説明を促す。
 「し、使用人達には今朝暇を与えたばかりでして・・・」
 歯切れの悪い言葉で若者が応える。ラティアはこの若者が現町長である事を知っているので、その立場の者が使用人全てに暇を出すという事が只ならぬ事態であると理解した。
 見透かされた事に、若者はバツの悪い表情で俯くしかなかった。
 「で、こちらの方は? どっかで見たことのある顔だけど」
 「商人ナスプがキャラバン隊。この町の伝令を任されている者にございます」
 老人が男の代わりに答えるとラティアは少し目を細め、男に向かって単刀直入に話を切り込んだ。
 「何が起こっている」
 容赦無い威圧。しかし、男はラティアのような手合いに慣れているのか臆する事無く口を開く。
 「サマンオサに魔物の群れが迫っている。サマンオサ南、山脈側から北上・・・」
 ユーナはアリアハンとランシールでの事を思い出す。飛竜の群れに魔法使いの群れ。となれば今回もラティアとサマンオサ軍が力を合わせれば勝てる、と心中意気込む。

 「その数およそ九万」

 場が凍りついた。
 確認できるだけでその数が予想されるという事は、まだ戦力は未知数であると皆が理解した。
 ラティアは町長の若者へ顔を向ける。
 「この町を、放棄するのね」
 若き町長は答えなかった。無言である事が一番の回答であると知っていながら、苦渋に顔を歪ませる。
 手始めが使用人の解雇。いずれ表の商人達を追い払い、住人を避難させ、魔物の侵攻を受けた町は荒れ果て人の住めぬ土地となる。
 「ち、ちょっと待ってよ、それじゃまるでサマンオサが負ける事前提じゃないか」
 ユーナが詰め寄る。仮にも大国の軍隊が無視されている会話に違和感を覚えた。
 「負けてしまうさ」
 アンリが口を挟む。レオも目を伏せ肯定の意を示す。事態を理解していないのはユーナとヒコだけであった。
 「サマンオサが魔物に国政を乗っ取られてから軍隊は壊滅と言っていいほど滅茶苦茶にされてんのさ。将軍であるサイモンの極刑から始まり、能ある将校は恭順なヤツ以外皆殺されてしまった。無意味な魔物討伐の為の遠征や、無謀とも云えるバラモス城への派遣。訓練の簡略化、予算の削減。残存する兵力は良くて八千。勇者一行が王に成り代わっていた魔物を討ち取る頃には、サマンオサは崩壊一歩手前の危険な状態だったのさ」
 アンリの説明でユーナは納得した。
 しかし国ひとつが間も無く滅びるであろう事実は実感できず、どうにもならないのかとラティアに視線を投げかける。
 「あの国は結構な間鎖国状態でね、他国との親交も満足じゃないのよ。余程の繋がりが無い限り兵が派遣される事は、ない」
 ラティアは言い切り、町長と老人の方へ歩み寄り金の無心を持ちかける。
 ユーナはそれを見て心がざわついた。
 ひとつの国が蹂躙されようとしているまさに目前で、力有る者が手を差し伸べず自分の利を優先しようとしている事に。それも、気心の知れた幼馴染が人の命と金を天秤にかけた事に、湧き上がる感情を覚えた。
 ふとユーナが隣を見遣ると、ヒコも同じ様な心持で怒りを積み重ねていた。
 「こいつは雲行きが怪しいね、こちらも早いトコずらかるかい」
 「・・・そうだな」
 滞在中の便宜を計りにきたアンリとレオは用が無くなったと踵を返し部屋を出て行こうとする。
 「という訳でアタイらは一足先に逃げるよ」
 「世話になったな魔法使い、それとユーナ」
 「貴方がその名を!」
 ユーナは激昂する。倫理や道徳といった文字がユーナの脳裏を巡るが、やがてそれは怒りの渦の中に溶けた。レオは悲しそうに眉を顰め、背中越しに手を振り屋敷を出て行った。アンリもすぐさまレオの後を追い姿を消した。
 「くそっ!」
 ユーナは悪態を付く。
 この冷えた空気の中で自分が憤怒している事が酷く場違いな気がして、それを認めさせようとする事実や合理的な理論等に怒りを振りまく。
 ただ、自分の裾を掴み同じ感情を共有するヒコが居てくれることだけが、ユーナの怒りを冷まさせないでくれる。
 奥の部屋から老人が戻ってきて、金の詰まっているであろう袋と何かを手渡した。
 「キメラの翼!?」
 ラティアが驚く。大賢者級の術士のみが極意を得る転移魔法ルーラに代わり、魔力の無い者でさえ行き先を念じれば転移させてくれる神獣キメラの魔道具。売れば一生とは云わずとも半生は何もせずに暮らせる程の金になるであろう希少品である。
 「アルス様、そのお仲間が来られた際にお渡しするよう言い付かっておりました。どうぞ御納めを」
 「ありがと、後が怖いけど頂いていくわ。それじゃあ失礼させてもらうわね」
 ラティアは袋の重さを確かめて荷袋に詰める。キメラの翼は手に持ったまま踵を返し、無言で感情を剥き出して訴えかけるユーナとヒコに対峙する。
 ラティアは二人の心情を知ってか、涼しい表情でその側を通り過ぎる。
 「さっさと行くわよ、なに突っ立ってんの」
 ラティアの足音が空間に響き渡る。一歩踏み出すごとにユーナの昏い感情が膨れ上がる。
 何かが音を立てて切れたような空気が流れる頃には、ラティアは屋敷の扉に手をかけていた。
 「ラティアァ!」
 ユーナが吼える。
 じっと身動きせずに押し殺してきた怒りが頂点を超え、気が付けばユーナは自分とヒコにピオリムを施しラティアを追走していた。
 屋敷を抜ける。太陽が容赦なく光注ぐ屋敷前の広場。目が明暗の差に慣れると、そこには風に外套をはためかせてラティアが待っていた。
 ユーナからは逆光でラティアの表情が窺えない。ユーナは好都合だと思い、ピオリムを解き魔力を薄く身体の表面で待機させる。
 「穏やかじゃないわね。そこの小さいのも」
 ラティアが視線だけをヒコに向けると、ヒコは両足に気を滾らせて今にも飛び掛らん体勢で居る。
 「どういう了見かしら」

 キメラの翼を弄びながらラティアは少しだけ眉を顰め、問う。
 「しってて!」
 言っているのだろう、とヒコは短く言葉を吐く。
 ラティアは杖の先で石畳を退屈そうに細かく突く。ゆっくりと、石と杖が奏でる音を観賞するかのように確りと突き立てる。
 ユーナはラティアが少しずつ威圧を高めているのに気が付いた。だが、ユーナは引き下がらない。
 「そのキメラの翼があればサマンオサにだってすぐに行けるだろう?」
 「行ってどうするつもり?」
 「たたかうにきまってんじゃん! サマンオサの人たちをたすけるよ!」
 「へぇ」気の無い台詞を返し、ラティアはあさっての方角に視線を向ける。ユーナとヒコは知らない、その方角にサマンオサがあることに。
 「誰が、どうやって、八千の弱兵で九万強の軍勢を打ち破るのよ。具体的に聞きたいわね、そこのところ」
 「アリアハンの時には戦っておいて! 関係無い国だったら無視するのかよ! 自分の国じゃないからって、そんなものかよ!」
 理屈じゃないだろ、とユーナは返す。しかし、それはラティアの求める答えではなかった。
 ラティアは石畳をひび割る程に強く杖を突き立てた。表情は変わらず涼しいままに。
 「アリアハンは避けられない闘いだった。ランシールもどうにかなると確信していたから救った。けど今回はどうなの? 勝ち目の無い闘いに加わって、たった三人が増えたところで何が変わるの? 死にに行くようなものよ」
 「ラティアには力があるじゃないか! サマンオサにだって守護の大賢者は居るんだろ! それなら!」
 「随分他人頼りなのね」
 ラティアは冷たく言い放つ。ユーナは自分の体内に流れる魔力が怒りに呼応しても程度の低いものだと分かっている。
 ユーナがそれ以上を求めるには時は短すぎた。
 「ユノ、ヒコ、ならアンタ達だけで行く? 成す術も無く、何を成す事も無く、犬死にするだけの為に、自己満足の為だけに」
 「いじわるだよ! そんなことば!」
 目に涙を滲ませながらヒコが叫ぶ。力不足で悩ましい思いをしているヒコは拳に氣を込めるが、感情の揺らぎが原因なのか上手く定まらない。
 ユーナとヒコにできるのは、ラティアに向かってただ非難をする事だけだった。
 「いいわ、そこまで言うなら」
 ラティアは提げ緒から杖を抜き、正眼に構える。
 「私に一撃与えることができたら、サマンオサに行ってあげようじゃないの」
 ユーナは絶句する。ラティアと戦う事を考えていなかった脳が数秒麻痺する。
 ヒコは拳を構える。ラティアといえど一撃くらいなら当てられる筈だと高を括る。
 「行くよ! ユウ!」
 ヒコの喝で目が覚めたユーナは両手に魔力を素早く練成する。
 ピオリムの光が二人を包むと、ヒコが先制に仕掛ける。氣で加速しピオリムで倍加したヒコの身体が残像を残してラティアに接近する。
 ラティアの口が小さく魔法を詠唱する。ヒコがラティアの身体を捉えた。
 「え?」
 ヒコの拳がラティアに突き刺さるが、ヒコは手応えを感じなかった。
 ぐにゃりと歪むラティアの像が腕に纏わり付いて身体を這い回り、ヒコの耳の穴へずるずると進入してくる。ヒコはそれを引き剥がし投げ捨てるが今度はラティアが数十体に分裂し、ヒコを取り囲んでいた。
 「うああああ!」
 「混乱魔法か! ラティア!」
 ユーナが魔力を込めた平手でヒコの頬を叩くと、ヒコは漸く我に返り悪夢の残滓に意識を不確かにする。
 ユーナはヒコの額に手を当て回復魔法を施すと、ラティアに向かってギラの閃熱を光線にして放つ。四本の光線はラティアの目前で魔法障壁に阻まれて軌道を逸らされた。
 「ヒコ! ラティアが魔法を唱えそうになったら気合を込めろ! 声を出してもいい!」「わかった!」
 ユーナは拳を握り締めたままゆっくりと動かす。ヒコは再び突撃し、今度は拳を打つ振りをしてラティアの足を払おうとする。ラティアが呪文を紡ぐ。
 「破ッ!」
 ヒコの気合が魔力を弾く。しかし、押し戻されたはずの魔力は圧倒的な質量を持ってヒコの氣を押し潰した。
 「ボミオス」
 払おうとしたヒコの右足が動かない。それ以上に呼吸すらできない状況に氣の流れが完全に断たれる。
 無防備な状態のヒコにラティアは杖を向ける。
 「させるかあああ!」
 ユーナが拳を胸元に引き寄せると、マホカンタの障壁に弾かれた筈の光線がラティアの背後から襲い掛かる。
 「ヒャダルコ」
 氷柱がラティアの背中を守る。敢えて中級魔法を使用する事により反射を防ぎ、ギラは氷柱の表面を僅かに溶かした後効果を失った。
 ユーナは次の魔法を生成しようと魔力を練るが、その一連の動作はラティアが速い。
 「ギラ」
 眩い閃光が辺りを包み、ユーナは思わず目を閉じて眩みを回避した。瞼すら動かせないヒコは光を直視してしまい声にならない悲鳴を上げる。
 ユーナが目を開くとラティアの姿は見当たらず、取り合えずユーナはヒコに駆け寄りボミオスを解除し視力を回復してやる。
 肩に手を置かれる感触。ユーナは瞬時に理解する。レムオルで姿を消したラティアが自分の背後に回り込んでいることに。
 悪寒を振り払いユーナは残る魔力を魔法抵抗に回す。
 「マホトラ」
 「あ゛あああああああああああ!」
 ユーナの抵抗は空しく、容赦無い魔力が意識を刈り取らんばかりの勢いで魔力を吸い取っていく。
 魔力吸収魔法マホトラ。ユーナの反撃魔法とは異なり、対象の体内に宿る魔力を吸い取り自信の魔力に変換する魔法。
 「が・・・・・・め、メラぁ・・・っ!?」
 小さな種火が生まれたかと思った瞬間に消える。ユーナの魔力は底をつき、その身体は力無く地に伏せる。
 ヒコがラティアに蹴りを放つが、再び遅延魔法ボミオスにより動きを封じられる。今度は会話ができる程度に。
 「なめんなぁっ!」
 手加減されている事実に、ヒコは涙を流す。力の差に、自分の不甲斐無さに、ただただ悔しくて嗚咽を漏らす。
 ラティアは表情を変えない。事務的に魔力を練成生成し、発動の鍵である呪文を紡ぐ。
 倒れたままのユーナは予感していた。おそらくこれが最後の一撃であろうことを、ラティアの仮面の内に宿る心を察して。
 「イオ」
 トン、と首筋に軽い衝撃を感じて、ユーナとヒコは気絶した。
 二人の身体は傷ひとつ無く、ラティアは杖を腰に戻す。
 いつの間にか周囲には野次馬が群がっていた。派手にやりすぎた、とラティアは溜め息をつき屋敷の扉の前で事態を窺っていた老人達に顔を向ける。
 「という訳で、借金の件はナスプによく言っておいてね」
 「了解致しました。貴女様の旅の無事を祈っております。それと、そこの若い冒険者にも神の御加護が有らん事を」
 老人と町長は胸の前で十字を切る。
 ラティアは軽く手を振り、空に向かってキメラの翼を放り投げた。
 ラティアを中心として魔方陣が描かれ、ユーナとヒコを含めた三人を囲む。ラティアは念じる。次なる場所を、ユーナとヒコの頭を撫でながら思い描く。
 (今、この子達を死なせる訳にはいかない。憎まれようと構わない。私はこれ以上大切なものを失いたくない。たとえ利己的だと言われようが)

 「ジパングへ」

 淡い光に包まれた三人は身体を粒子に変え、何処へと消える。
 事が終わったのを察した観衆は散り散りになり、サマンオサの危機を知らないナスプバークの通りは次第に元の喧騒を取り戻していった。

 

 

 

 

 

 

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