7 - 2

 

 ジパング宮殿正面。大三本鳥居が夕日にその朱を深める。
 
「其処に止まれ! 異人よ!」
 呼び止められる事を確信していたラティアは素直に衛士に従い足を休める。
 軽甲冑を鳴らしながら衛士が数名近づいてくる間も、ラティアは眼前に聳えるジパングの宮殿を眺めていた。
 自分達をまるで無視した態度だ、と衛士は語気荒くラティアを問い質す。
 「このような時刻に何用で参った。此処をジパングの御宮と知らぬとは言わせぬぞ。だが、真に只迷い込んだのなら不問と致す。そのまま口を開かずに此の場から去ねい!」
 ラティアに向け幾本もの槍先が差し出される。
 衛士達の威圧にも動じず、ラティアはその中で一番偉そうな人物に当りを付けて詰め寄る。
 流れるような足捌きに衛士達の判断が追いつかず数名、隣の者と刃を交わしてしまった。
 「実はヒミコ様に大事な用件があってね、そこをすんなりと通してくれたら嬉しいんだけどな。ほら、怪我すると痛いじゃない? 誰だって痛いのはイヤでしょう」
 「それが罷り通らぬから我らが此処に守り置かれておる! 圧し通るか、狼藉者が! 出会え! 出会えい!」
 衛士の一人が吹き鳴らした警笛を聞きつけ、兵士達が宮殿の方から集まってくる。
 鳥居二本目の石畳の上にてラティアは数十名の衛士兵士に囲まれ、身動きが取れなくなってしまった。
 (焦りすぎた。でも時間が無いのは事実)
 いつ寝首をかかれるとも知れない国で身体を休める訳にはいかないと考えるラティアは、いつでも呪文詠唱に移れるようにと魔力を練成する。
 ラティアは魔力を分かり易いように視覚化し、警告代わりに自分の膨大な魔力を渦巻かせ見せ付ける。
 「鬼の類か・・・!」
 常識を遥かに超える魔力量を目の前に、多くの兵達が二の足を踏み士気を下げる。
 「物の怪一匹相手に朝兵が大勢で遅れをとるか!」
 囲いの中からラティアに啖呵を切った衛士が気合と共に踏み出し、震える穂先を抑えきれずに構えを採る。
 「骨があるのね。だけど、幻術か何か知らないものにココをやられているようじゃ駄目ね」
 ラティアは挑発するように指で自分のこめかみを細かく叩く。
 「貴様、馬鹿にするかあ!」
 衛士はいきり立ち、槍を腰に溜めラティアへ目掛けて突進した。ラティアは呪を唱える。
 「レムオル」
 衛士の目の前からラティアの姿が消え、目標を失った衛士は槍をやたらと振り回し接近を許さない状況を作る。
 「ボミオス」
 「なんだ・・・腕が!」
 槍を回転させていた衛士の腕が動作を鈍くなり、思うように柄を操れなくなる。戸惑う衛士は槍の柄にもうひとつ手が添えられているのに気が付くが遅い。
 「イオ」
 弾き飛ばされた槍は回転しつつ群集めがけて飛び込んでいく。
 「避けろ! 道を空けい!」
 腕を麻痺させられた衛士は蹲りながら叫ぶが、咄嗟の事に対応できなかった数名が穂先の射程内で呆然としていた。
 願。
 取り残された兵士達の背後から大刀を上段に構えた男が飛び出し、凶刃を無人の後方へと斬り弾く。
 男は地に足を揃え、抜き身の直刀をだらりと下げ構える。
 「何事の騒ぎだ! 誇りある朝廷の郎党が賊相手に幾らの手を省いておるというのだ。無駄に密し足場を狭めるからこの様な事になる。我が駆けつけなければ貴様ら只では済まなかったぞ!」
 (なんか見覚えのあるような奴が出てきたわね、名前忘れたけど)
 ラティアは自信を身体強化魔法スクルトとバイキルトで限界まで補助し、斧等の鈍い武器ならば切り裂けない身体で相手の出方を待つ。
 もし、目の前の兵がラティアを覚えていなければ接近戦闘になる事は必至である。
 周囲に檄を飛ばしていた兵士とラティアの視線が合った。
 「賊と云うのはきさ・・・貴女様・・・だったのか」
 兵士はどう対処したら良いものか困惑した表情を見せる。戦意を見せる訳でもなく、ラティアを知っている素振りで考えを纏めようと眉間に指先を当てる。
 「近衛長! どうされましたか!」
 ラティアに魔法をかけられたと勘違いした衛士達が近衛長と呼ばれた男に駆け寄る。男は正常を示し、掌で衛士達を制止する。
 ラティアは助けに、と問う。
 「ひとつだけ聞くわ。アンタ、まともなの?」
 はっとした表情で男は顔をラティアに向ける。ラティアが少なからずとも事態を理解している事に気が付いたようであった。
 だが、男は苦い表情で押し黙ると、暫らくして漸く重い口を開いた。
 「立ち去られよ・・・夜分に宮殿での拝謁は固く禁じられておる。強行するのならこの草薙にて、き、貴様を斬り捨てなければならぬ。また明朝にでも参られると宜しかろう」
 ラティアは察する。この場において目の前の男が己が正気だという事を明かしてはいけない事情があるのだ、と。
 その、国の救世主を手打ちにする程の覚悟を見せられ、ラティアは深くため息をついた。
 「はぁ、解ったわ。急ぎだったもので無理通そうとしたのが間違いだったわね。駄目元で来ただけだから、アンタの言う通りに明日来る事にするわ」
 「・・・こちらとしても助かる。して、天は帳を下ろしているが灯りの者を遣そうか」
 気が付けば辺りは藍色を濃くし、場所によっては篝火が焚かれているものの街道には漆黒が漂っている。
 月は暫らく経てば新月と、その身を弓なりに細めている。
 ラティアは手をひらひらと振って見せた。
 「遠慮するわ、たった今ケンカした相手と夜道を歩くなんて気が知れないわよ」
 「そ、そうか」
 男は衛士達に解散するよう指示を飛ばし、鳥居をくぐり村へと帰るラティアの後姿を監視している。
 ラティアはふと思い出したように男に振り返った。男と数名の衛士が身構える。
 「あ、そうだ、アンタ名前なんていったっけ? ホラ、初対面なわけでしょう、私達」
 男は眉を顰め、頬を痙攣させながら答えた。
 「ジパング王朝皇室近衛長代理、オグナだ。以降忘れ無きよう願う」
 ラティアは踵を返し、手を振って善処の意を示す。

 

 (と言われて素直に引き下がるほど私はお利口じゃないのよね。まったくどこの馬鹿が移ったのかしら)
 呟き、ラティアは三本鳥居の最後をくぐる。辺りには衛士が警護しているが、姿を消したラティアを捉える者は誰一人としていない。
 堂々と正面石畳の中央を突き抜け、ラティアは宮殿に侵入する。
 三日後に開かれるという祭りの準備の為か、場内では兵士や女中が忙しなく動き回っている。ラティアは壁伝いに人を避け、ヒミコが居るであろう寝所へ向かい慎重に進む。
 対魔法用の罠が設置されているかどうかを重点に調べ、城の者の間をすり抜けヒミコの寝所が在ったであろう部屋の前まで辿り着くとラティアは物陰に隠れ、レムオルを解除し睡眠魔法ラリホーで見張りの近衛兵達を昏倒させる。
 「これでしばらくは目を覚まさないでしょ」
 ラティアは横たわる兵士達を跨ぎ避け、扉に手をかけようとして侵入者用の魔法罠が仕掛けられているのに気が付く。先程ラティアが唱えたラリホーと同じ効果を持つ、油断した侵入者を眠りに誘う類の罠である。
 ラティアは辺りを見渡し、扉を不正に開けた際に警報と攻撃を行う罠が設置されているのを発見した。
 不敵に嗤ってラティアは魔法を生成する。
 「マホカンタ」
 生半可な魔法は一切通さない魔法障壁を張り、ラティアは強引に扉を抉じ開けた。
 「スクルト」
 扉が開いた瞬間両脇から強襲した鏃がラティアの鋼の身体に弾かれ、昏倒している近衛兵の顔元の床に突き刺さる。
 「こんな罠仕掛けてある方が悪いのよ・・・・・・っ!?」
 兵士に当たらなかった事に安心したラティアは侵入者感知の警報がけたたましく鳴り出したのに耐え切れず、急ぎヒミコの寝所へ飛び込んだ。
 畳が敷き詰められた広い部屋、その奥に御簾が掛けられており人影が覗いている。
 世話係であろう女中達が慌てふためき逃げ惑うのに白目を向け、ラティアは兵士が集まる前にと全速力で御簾に駆け寄り簾を捲り上げた。
 中で鎮座していた女が伏していた瞼を持ち上げる。白部を深紅に塗り替えた人ならざる瞳に、ラティアは確信を得る。
  何かしらの魔物がヒミコの名と体を用いている事を知る。
 「控えろ、下郎が」
 ヒミコの魔眼が煌めいた。
 身体の奥から凍て付くような光を浴びせられラティアは堪らず後方へ飛び退く。ラティアは自身に施したスクルトとマホカンタが解除されている事に気が付き、一筋縄ではいかないと魔力を練成する。
 「今の・・・ゾーマと同じヤツ・・・マヒャド!」
 兵士の足音が近づいてくるのを聞きラティアは勝負を決さん、とヒミコを中心に無数の氷槍を待機させた。
 すでに女中は逃げ辺りに人影は無く、今この部屋に居るのはラティアとヒミコの二人である。
 ラティアは御簾を開き出て来たヒミコに向かい杖を突きつける。
 「単刀直入に聞くわ、アンタ何が目的なの」
 ラティアの質問にヒミコは含み笑いで応え、扇子を口元に当て眦を下げた。
 「答える義理が在ってか? 家畜に対し」
 「ああ・・・」
 ラティアは得心し、堪忍袋の緒を切る。
 「もういいわ。理解した。後はその口が次に開く前にアンタを塵に還すだけだから」
 氷塊が一斉にヒミコへと降り注ぐ。魔力を無効化する波動も死角ならば届くまいと予想したラティアは次の魔法を生成し構える。
 ヒミコを中心に火柱が立ち、襲い掛かるマヒャドは昇華され部屋を薄霧に包んだ。
 「イオラ!」
 連続した爆発魔法が御簾を焼き弾く。イオナズン一撃で無効化されるより威力を落として反撃する隙を与えないまま焼き尽くす方が効率的である、とラティアはイオラを詠唱し続けた。
 ラティアは爆炎で部屋の半分が覆われたのを確認し、大気震わす魔力を解き放つ。
 「べギラゴン!」
 相手に知覚されなければ魔法無効化も意味を成さない。ラティアが放った閃熱は煙幕の向こう側から眩い光を放ちながら燃え盛った。
 ラティアは背後から複数の足音が部屋に入ってくるのを確認し、御簾が有った場所と入り口との距離を取る。
 「ヒミコ様の御寝所が! ・・・貴女様は・・・御帰り願ったというのに・・・!」
 兵士を引き連れたオグナが大刀を固く握り締めラティアを睨む。ラティアは相手にせず炎渦巻く部屋の奥を監視し続ける。
 「むざむざと死ににッ!」
 オグナが剣を構え飛び出す。ラティアは構えオグナを殺す気合で魔法を生成しようとした。
 しかし、オグナの行き先はラティアではなく部屋の中央。腰を落とし剣を平に構えると、そのまま正面の空間を大きく薙ぎ払った。
 青く輝く氣がその場の炎を煙幕ごと消し去り、跡には焼け焦げ半壊した寝所が現れた。
 「べギラマ!」
 眩い閃光が寝所を包み、ラティアは間髪入れずに次の呪文を詠唱する。
 「メラゾーマ!」
 灼熱の火炎球は高速で突撃していくと、部屋半分向こう側でその動きを止めた。
 ヒミコはその左腕だけでメラゾーマを受け止めていた。
 推進力を失った巨大な火球は不敵に嗤うヒミコの一睨みにて大気に還る。ラティアが放った最上級魔法は悉く効果を発揮する事無く、ヒミコを無傷のまま佇ませている。
 「終いか。つまらぬ」
 ヒミコの右手が上がる。ラティアは次の攻撃に備えて魔力を滾らせる。
 「お待ち下さいヒミコ様!」
 一触即発の両名の間にオグナが割って入った。興を削がれたヒミコは眉間に皺を寄せオグナを睥睨する。
 「曲者を擁するか近衛。死ぬるには若いぞ」
 空間に殺気が充満し気力の弱い衛士数名が気絶する。オグナは草薙の剣を固く握り締め、唇を噛み切って正気を保った。
 「僭越ながら、清浄な御寝所を賊の血で穢すのは如何なものかと申し上げます。さすれば其処なる輩を建国祭の人柱に加え、ジパングの盛業の礎にするのが得策かと」
 「・・・」
 ヒミコはオグナを威圧し続けその様子を見ている。オグナは跪き頭を垂れ身動きひとつ取れずに、額に玉のような汗を浮かべている。
 扇子を口元に、ヒミコは視線をラティアに戻す。
 「暫し待て。この下郎を捕らえるに貴様等では役不足よ」
 「・・・御意」
 「ふん・・・随分と嘗められたものね、まるで私が負けることが前提みたいに」
 「はて」
 ヒミコは扇子を閉じ袂を直す。
 「『前提』とな。否、其れは『絶対』であるぞ」
 「言ってくれるじゃない」
 ラティアの奥歯が擦れ合い軋む。練成された魔力が杖に集中し小枝を砕くような破裂音が続く。
 ヒミコは間合いを気にする事無く、ついと正面に進んだ。
 ラティア以外の者が踏み入れば呼吸する事もままならなくなる魔力溜りにヒミコは平然と侵入する。
 魔力は更に質量を増幅される。魔力が魔法として生成される前に実体を持ったかのようにラティアを中心とした地面が軽く沈み込む。
 ランシールで岩山の肌を削った程の大魔法は支度を終え、後は解き放たれるのみであった。
 「ああああああああ!」
 ラティアが吼える。渾身の一撃を、無効化する暇さえ与えない強力無比の魔法を唱えようと口を開く。
 「少し黙しておれ、羽虫めが」
 いつの間に踏み込んだのか、ラティアの正面に立つヒミコが魔法使いの顔面を鷲掴みにした。
 ラティアは構わずに魔法を詠唱しようとする。爆発を前面に指向させれば問題はない、とヒミコの腹部に杖先を押し当てる。
 瞬間、ヒミコの形相が一変した。
 悪鬼と呼ぶに相応しい面相で口の端から炎を覗かせる。
 「気安く触れるでないわああ! 糞蟲が、寛容にして居ればつけ上がりおって! 神と屑の力の差も量れぬ愚図が! 今此処で其の傲慢圧し折ってやるわ!」
 ヒミコの身体から黒い霧のような魔力が立ち昇り、瞬きの間にラティアを魔力ごと地に屈服させる。
 ラティアは何が起きたのか理解できていなかった。
 ゾーマを除き、自分の魔力の絶対性を信じて疑わなかったラティアが、一呼吸も許されないまま身動きを封じられている事実を理解するまでに数秒を要した。
 ヒミコは犬歯を剥き出しに呪いを吐く。
 「メダパニ」
 脳髄に強制的に入り込んでくる魔力にラティアは抵抗を試みるが、ヒミコの一喝によって更に勢いを増した魔力はその堤防を紙細工のように打ち壊す。
 「うがあああああああああ!」
 ラティアの意識が混濁し、天地の判別が付かなくなり、胃の内容物が逆流した。
 「っが蛾・・・亞ああ嗚呼ァ」
 自分が吐瀉してるのかも理解できなくなったラティアの髪を引き、持ち上げたヒミコは息も掛かりそうな目の前で邪悪に嗤う。
 「楽しみにして居れ魔法使い。天の加護無き夜、幾千の贄の前座に咎人を柱に括り、血の禊に拠ってジパングに安寧を齎そうではないか。其の刻、貴様と我に仇成す蟲めら・・・」
 ラティアはヒミコが何を言っているのか聞き取れていない。朦朧とした思考は大魔王と対峙した時の恐怖と光景を繰り返し見せ続ける。
 叫びたくても声にならないラティアは、涙を流す事しかできなかった。
 ヒミコは愉しげに呪詛を続けた。

 「悉く、悉く、二度と還らぬようはらわたを喰らい尽くしてくれるわ」
 
 そこでラティアの意識は途絶えた。
 圧倒的な敗北を以って、ラティアは敵の手に落ちた。

 

 

 

 ラティアがジパング宮殿に赴いた日の夜、ヒコの家ではヒコが無事帰った事で賑やかな食卓が広げられていた。
 「あ、タケ! それあたしの!」「おそい、おそすぎるぜねーちゃん」
 「こら、喧嘩しない! タケもおねーちゃんのあげるからヒコのを取らないの」
 姉弟達が騒がしく食料争いをしている傍らで、母のクシナダが眦の涙を拭い微笑んでいる。父のミコトは寡黙に坦々と食事を進めていた。
 家族はヒコが家出をしていた時の事を詰問しない。無事に戻ってきた事がなによりだ、とヒコを許した。
 ヒコはミコトを盗み見る。
 黙々と箸を動かすミコトは、時折その視線をサクヤに向けている。その表情は何を考えているのか分からず頑なだが、ヒコは父親の眼差しにどこか憂いが秘められているように感じた。
 ヒコはミコトに気づかれる前に視線を外し、自分の皿に手を伸ばしていたタケの手首を叩き食卓の内紛を平定する。
 「ヒコ、どうしたの? 調子悪いのかしら」
 「ううん、ちがうよ。なんでもない、ただ、ぼーっとしてただけ」
 クシナダがヒコの様子がおかしい事に気が付く。
 普段ならタケに奪われる前に、と全力で食事に挑むヒコが細々と口を動かしているのを不審に思っているのはクシナダだけではなかった。サクヤもタケもどこか調子が狂う様子でヒコの表情を窺っている。
 ヒコはどこか満ち足りた気持ちになる。
 「だいじょーぶ、だいじょうぶだから。えと・・・ひさしぶりに食べた母さんの料理が、ほんとーにひさしぶりだったから。それだけだから、ね」
 平時から気の細いクシナダはヒコの言葉で再び涙ぐみ、それを子供達に見せまいと席を立つ。
 「お母さんはお風呂を焚いてくるから、あなたたちはゆっくりとご飯食べてなさい」
 「俺が先に入る。火釜の方へ行く、お前は湯加減を見ていろ」
 早々に食事を終えたミコトはクシナダと連れ立って居間から出て行った。少しだけ急いているように見え、ヒコは監視していた事を悟られたのかと気を揉む。
 ぱん、とサクヤが手を打ち鳴らす。ヒコは急に現実に引き戻された。
 「そうだ! ヒコ、久しぶりにおねーちゃんとお風呂入ろうか。他所じゃ満足にお風呂も入れなかったでしょう」
 「え? おねえちゃん、あたしもう十四だよ。そんな、はずかしいよ」
 サクヤはきょとんとした表情の後、苦笑する。
 「何を言っているの、ヒコ? ヒコはまだ十二になったばかりじゃない」
 ヒコの思考が絡まり解けなくなる。目の前のサクヤの瞳は嘘を告げていない。だからこそ余計に事態を飲み込めずに、受け入れようとした幻想が軋みヒコを苛む。
 一瞬躊躇った後、ヒコは今この時を選んだ。
 「そ、そうだね。なに言ってるんだろうねあたし、あはは・・・」
 「ねーちゃんバカすぎてじぶんのトシもわすれたのかよ、すくえねー」
 「うっさい! このばかタケ!」
 弟に拳骨を落として、ヒコはサクヤに向き直る。
 「わかった、おねえちゃんいっしょに入ろ。そうだよね、前はけっこーひんぱんに入っていたしね」
 サクヤは満面の笑みで掌を胸の前で組み合わせた。
 「じゃあおねーちゃん着替え取ってくるわ! ヒコは待っててね、父さん出てきたらすぐに入ろうね!」
 小走りで駆けて行くサクヤの背中を見送り、タケが肘でヒコの身体を小突く。
 「すげぇしんぱいしてたんだぜ、サクねーちゃん。かーちゃんといっしょにないててさ」
 タケの肘を払い、ヒコは弟の頭に手を乗せ髪を掻き乱す。タケは気恥ずかしくなったのか、姉の手を払い除け部屋の奥へと逃げ去って行った。
 「わかってるよ・・・」
 誰もいなくなった居間で、ヒコは中空に向かって独りごつ。
 ヒコしか居ない空間はそのまま融けてしまいそうな暖かさに包まれていて、ヒコは少しだけ眠気を覚える。
 「おねえちゃんは、とても・・・とてもやさしいんだ。きれーで、あったかくて、なんでもできて・・・たまに厳しいけど・・・・・・あたしの大好きなひと」
 そのまま机に突っ伏したヒコは、サクヤに起こされるまでまどろみの中に浸っていた。

 

 「ヒコったらもう、ご飯食べながら寝ちゃうなんて赤ちゃんじゃないんだから」
 「う、うるさいなぁ、ちょっと疲れていたからしかたないじゃん・・・」
 頭から湯をかけられてヒコは完全に眠気を払拭する。
 湯船に二人、ヒコはサクヤに背中を預けながら水面から顔半分だけを覗かせている。ぶくぶくと噴出した泡が水面で湯気と交わる。
 サクヤはただ穏やかにヒコを抱きしめる。二人とも言葉は無く、立ち昇る湯気がいつまでも天井に届かないかのように時が歩を緩やかにした。
 小窓の外には月が、伏せた目を薄雲に覆われようとしている。次第に陰る室内が、灯火の明かりを際立たせていく。
 浸、とした風呂場。
 湯船に水滴が落ちる。
 それは上気したヒコの瞳から零れていた。ヒコは痙攣しようとする肺を押さえようとするが、溢れる感情は堪えきれずにヒコはしゃくりあげ始める。
 「ヒコ・・・?」
 サクヤが心配して声をかけるがヒコには逆効果だった。ヒコは抱きしめられたサクヤの腕を握り、声を殺し泣き咽ぶ。
 「うぅぅ・・・ぁぁあ」
 幸せなのが辛かった。この温もりが何かしらの幻だと頭の片隅で理解しているからこそ、いつか失ってしまうであろう結末を見たくなくて心が悲鳴を上げる。
 ヒコはサクヤが生贄にされた日の想いを忘れた事がない。今でも時折夢に見ては枕を涙で濡らしている。
 そのサクヤが今まさに隣に居る。
 一体何がどうしてこうなっている、とヒコは考えるが思考と感情が混濁して何もかもが面倒になる。
 現実を否定できない己と幻想に溺れていたい己に分かたれ、ヒコの精神は底無しの地に切り立つ針の山で差し伸べる手も無く、ゆらゆらと姿勢を整えている。
 もういっそ墜ちてしまえばどんなに楽だろう、と泣きながらもヒコはそこから飛び降りれずにいた。
 サクヤは優しくヒコの頭を撫でる。
 何も問わず、ヒコの爪が腕に食い込むのも気にせず、傷口から流れ出る微量の血液は湯に紛れ、その赤色は見えなくなる。
 ヒコの嗚咽が治まる頃、サクヤは口を開いた。
 「・・・ヒコ、今日はおねーちゃんと一緒に寝ようか」
 ヒコは応えず、ただサクヤの腕を確りと抱きしめた。
 雲隠れしていた月は、顔を覗かせる頃には更にその眼を細めていた。

 

 

 

 視界と共に意識を取り戻したラティアが最初に見たのは、湿り苔生す石畳だった。
 止まない頭痛に顔をしかめ上半身を起こし、酸味のする口内の物体を纏めて吐き捨てる。身体を支える腕に力が入らない為、ラティアは壁まで這いずり背を預け楽にする。
 前方には格子が嵌められており、此処が牢屋であるとラティアは認識する。
 最悪の気分だった。ラティアは掻き回された脳味噌があとどれだけ休んでいれば回復するのかという事に気を揉み、不自由の残る身体を他に異常が無いか点検する。
 ラティアは荷を取られていない事に気が付き、失笑する。
 (脅威に値する資格もないってか・・・この私が・・・)
 掠り傷一つ負わせる事も無いまま屈服させられた記憶に、ふつふつとラティアの怒りが湧き上がってくる。気を許せば再び吐いてしまいそうな胃を押さえつけ、歯を食いしばる。
 眠っていた事により充足されていた魔力が唸り、練成されていく。
 「イオ!」
 爆発が炸裂するも格子はびくともしない。何重にも塗り固められたマホカンタは如何なる魔法も受け付けない。ラティアは肩を落として魔法を生成するのを止めた。
 (あんなもの破壊する頃には魔力切れで倒れてるっての。こんな狭い場所じゃ大魔法も使えないし)
 「喧しいな」
 近くでのそり、と気配が動き出した。ラティアは戦闘ができるように構える。
 灯りの乏しい牢屋の隅で、影がその身を起こし闇の中から双眸を瞬かせる。鈍い眼光は獅子の如き獰猛さを湛え、今にもラティアの喉笛を噛み切らんと殺気を放つ。
 だが、男はすぐに殺気を治めて立ち上がり、ラティアの下へと歩み寄ってきた。
 「何かと思えば勇者殿であったか。久しいな、いや、久しいな」
 ラティアは目を凝らし、次第に鮮明になっていく男の姿を確かめる。
 「えっと、ゴメン。私、人の名前覚えるの苦手なのよ」
 「これは御挨拶」
 そう言い、男は豪快に笑い飛ばし、襤褸と化した着物を正しラティアの前に膝をつく。
 「手前はジパング王朝皇室近衛長、ヤマトと申す。貴女とは何時ぶりであろうか、いやこの地下牢は刻を知る手立てが無くて困る。これでは救い神様に面目立たない、許されよ」
 「ああ」
 そういえばそう云う肩書きの男も居たな、とラティアは記憶の片隅で散らかっている有象無象を俯瞰しながら、適当に相槌を打つ。
 「それで、なんでアンタはこんな所にぶち込まれている訳? 近衛長代理さんとやらはそれなりに立ち回っているようだったけど」
 「なに、俺がそれを堪忍できなかったというだけよ。獅子の身中に潜り込むより、正面から打ちのめしてやりたくてな。まあ、結果がこの様だがな」
 ヤマトは胡坐をかき、どしりと構える。ラティアは自分を見るヤマトの瞳の奥に炎を見る。
 「それにしてもオグナの奴はまだ生きて居ったか。存外器用よのう」
 「随分神経を磨り減らしていたわよ、アレは禿げるわね」
 「間違っても言うてやるなよ。本人も気苦労の多さと体調の不具合は気にしておるからな」
 「どう見ても大体がアンタの所為でしょうが」
 違いない、とヤマトは笑い、ラティアもまた釣られて失笑してしまう。
 急にメダパニの後遺症がラティアの脳を刺激し、ラティアは堪らず頭を押さえる。
 「づぅ!」
 「奇術を直接食らうたか、あれは堪らんな。流石の俺も発狂しそうになったわ。どれ、勇者殿、その額を俺に少し預けてみよ」
 ラティアは得体が知れない、と無言でヤマトを睨みつける。ヤマトは悪戯小僧のような笑みを浮かべラティアににじり寄る。
 「ちょっと! 寄るな変態!」
 「結構結構、変態にて候。がははは!」
 ラティアは我慢できずにヤマトへ向かってボミオスを放つ。しかし、気力の削がれた魔力は十分に練成されずにヤマトの気合に拠って弾かれ無効化される。
 ヤマトの掌底がラティアの額を捉え、軽い衝撃が後頭部へと突き抜けていく。
 ラティアの呼吸が一瞬止まり、酸素を欠乏した身体が急激に大気を体内に取り込み、ついでに唾液も気管に入り込んだ。
 「ゲホッ! が! ゲホォ! 何するのよ、この馬鹿!」
 「どうどう、落ち着け。これ噛み付くな。して、どうだ? 気分の方は」
 「あ゛ぁ!?」
 語気荒く威嚇した後、ラティアは頭痛が消えている事に気が付く。ヤマトはしたり顔で微笑む。
 「邪気は祓うた。勇者殿は神官ではないから施術を解くのは不得手であろう?」
 「一応礼は言っておくわ」
 腑に落ちない表情でラティアはそっぽを向く。氣によって弾き飛ばされたメダパニの残滓は大気に融けていき、ラティアはその空間に向かって拳を振り出す。
 「それで」
 ヤマトは呼びかけられ反応する。寝転びながら尻を掻いていた様をラティアに睨まれ、慌てて座り直し取り繕う。
 「・・・アレはオロチなの?」
 「判らん。区別する前に挑んで負けて此処に放り込まれたからのう。悪鬼羅刹の類であるのは確かだが、あの忌まわしきクチナワであるかどうかまでは、な」
 「使えないわねぇ」
 「おお、手厳しいのう」
 じろり、と睨むラティアの視線をかわし、ヤマトは牢屋の入り口に置かれている食事に手を伸ばしもりもりと胃の腑に納めていく。
 「毒なら入っておらんよ。彼奴め、どうやら建国祭と称した行事で俺を餌にしようとしているらしいからのう。食えるものは今のうち食っておかんと、いざという時に力が出んのでは話にならんよ」
 そう言ってヤマトはラティアの前に皿を差し出す。
 「ジパングの米は絶品ぞ勇者殿。これさえあれば百人力、どっこいと山さえ持ち上げられそうな気がしてくるわ。がははは!」
 「また能天気な」
 ヤマトから皿を受け取り、ラティアは観念してため息を付く。
 市場で野菜を売り出していたヤヨイ夫妻から聞きだした建国祭の開催日は三日後。それまでに考えうる最悪の事態と、尽くし得る最善の手段を講じなければならない。
 ラティアは隣で食事後の惰眠を貪るジパング王朝皇室近衛長の背中を眺める。
 己の死期が近づいているというのに呑気なヤマトは、そこに居るだけでラティアの肩の力を抜いてくれた。
 ヤマトのおかげでラティアは冷静になれた。
 思考する時間は十二分にある。
 残り、ラティアに必要なのは、あと三日で人生が終わるかもしれない事に対しての覚悟だけである。

 

 

 

 ジパング建国祭まであと二日。
 早朝の空気爽やかな中、ユーナとヒコとサクヤが並んで縁側に腰掛けている。
 「あのナマイキに皆をひっぱってたのがアクト。少しおませさんな背のびぼーやがフタヤ。元気で楽しいのがアスハで、おとなしくてかわいいのがヒナ。おぼえた?」
 「えーと、アクトにフタヤにアスハにヒナ、か。よし覚えた」
 ユーナは記憶の中から昨日遊び相手になった子供達の顔を思い出し、名前を一致させる。
 「凄いですね、一回で覚えてしまえるなんて」
 「あ、いや、覚えているだけで、大した事じゃないから・・・」
 尊敬の眼差しを向けてくるサクヤにユーナは視線を泳がしながら戸惑う。サクヤが微笑むと身体の芯から熱くなるように感じて、ユーナは顔の火照りを冷ます為に周囲に風陣魔法バギを展開させ涼をとる。
 「そうだよ、大したことじゃないよ。名まえおぼえるなんてかんたんじゃん。てかその風やめてうっとうしい」
 「こら、ヒコったらもう憎まれ口ばかり」
 サクヤの注意にも耳を貸さず、ヒコはユーナに向かって歯を剥く。ヒコの二転三転する態度にユーナはどう対処していいものか混乱して辟易する。
 サクヤはヒコの頭を撫で、軽く窘める。
 「それでユーナさん」
 「あ、あの!」
 サクヤの言葉を手で制止し、ユーナは気恥ずかしそうに俯く。
 「その・・・それ、『さん』っての、慣れてないんで・・・そんな風に呼ばれた事ないし・・・畏まられると、ど、どうにも落ち着かなくて・・・」
 きょとん、とした後事態を理解したサクヤは手を合わせて嬉しそうに微笑む。
 「そうですね・・・じゃなくて、そうね。年齢も一緒な事だし、これからは気軽に呼ばせてもらうね、ユーナ?」
 ユーナの動悸が速まる。何故こうも緊張しているのか、と身体の変調の理由が分からないユーナは戸惑い、更に挙動不審になってしまう。
 「う、うん・・・よろしく、サクヤ・・・って痛ァ! なにするんだよおまえ!」
 ユーナの脛を蹴りつけたヒコは姉を庇うようにして身を寄せる。気功を使用していなくとも仮にも武闘家の攻撃、ユーナは眦に涙を浮かべて悶絶した。
 「ヒコ、やりすぎよ。おねーちゃん怒らせたいの?」
 「ごめんなさい」
 「いてて・・・本当に反省しているのかおまえは」
 ヒコはユーナに向け頭を下げている為、ユーナから表情が窺えない。ヒコの口の端が微かに吊り上っている事にサクヤも気が付いていなかった。
 ヒコが腰を落ち着けた頃、サクヤは話を戻した。
 「それでユーナ、今日は何をする予定なの? 確か、連れの方が戻ってこないのよね」
 「うん、だから今日はラティアが最後に足を運んだかもしれないジパング宮殿に行こうと思っている。そこで何か足取りが掴めるかもしれないし」
 「なら私が宮殿まで案内しよっか。ユーナ、ジパング初めてなんでしょう? 迷って村の外で豪傑熊に襲われでもしたら大変」
 「僕はそんなに頼りないかな」
 くすくすと笑うサクヤに下唇を見せるユーナ。
 「じゃあ、道案内お願いしてもいい? サクヤと一緒なら不審者に扱われる事ないから、安心できるよ」
 「ちょっとまてぇい!」
 二人の間で沈黙していたヒコが急に立ち上がりユーナを指差した。
 「あたしもッ! 行くからッ! ふしんしゃに見られなくてもゴカイはされるでしょうがッ!」
 「おまえは何を言っているんだ?」
 ユーナに応えず、ヒコは両手振り上げ片足立ち威嚇らしき奇行でサクヤを防御する。ヒコの繰り出す無数の拳が空気を押し出し、ユーナに爽やかな風を送る。
 ヒコの頭頂部にサクヤが手の平を落とす。
 「なんだ、ヒコも一緒に行きたいならそう言えばいいのに。まったく変な照れ隠しね」
 「なんじゃそら!」
 ヒコの脚がユーナの後方で地面を抉り取った。
 飛び蹴りをバギでユーナに躱されたヒコはすぐに我に返り、鬼のような威圧で静かに微笑むサクヤへ振り返る。ユーナは仕様が無い、と溜め息と共に目を伏せた。
 「・・・ヒコ、そこに正座しなさい」
 日差しが熱を徐々に強め朝が昼に変わろうとしている頃、鶏鳴とヒコの声が集落の一角に響き渡った。

 

 「えー、ここがジパング名所のひとつ、大三本鳥居でございますー」
 ジパング宮殿を正面に構える石畳の登り坂に聳える鮮やかな朱色の鳥居を見上げ、ユーナは首の筋を違えそうになる。大人数人が手を広げ取り囲める程胴回りのある柱に圧迫されつつ、ユーナは先頭を行くサクヤとヒコについて行く。
 所々に衛士が見張りに就いているがサクヤとヒコを見留めると警戒を解き、先に進むことを無言で許可した。
 「こりゃ、一人で来てたら面倒な事になってたなぁ」
 「かんしゃしろよー」
 「ここの警備は厳しいからね、外国の人が勝手に入ってきたら大変よ。まぁ私達でも宮殿内には許可無く入ることができないんだけどね」
 「大変な事、ね」
 ユーナは辺りに漂う薄靄のような魔力に気が付き、鼻を鳴らす。大気に帰らず宙を浮遊している程の高密度魔力が誰のものなのかユーナは半ば確信している。
 サクヤの言う大変な事が起きたのは間違いなさそうだ、とユーナは辺りを見渡すがそれ以上の痕跡を見つける事ができなかった。
 三本目の鳥居を抜け、砂利の敷き詰められた宮殿前広場に出ると人が右から左へと、またその逆も然りと大慌てでひっきりなしに動き回っている。
 その様子に地元民である二人も呆気に取られ、三人は往来の真ん中で立ち尽くしている。
 「おねえちゃん、なにこれどうしたの?」
 「し、知らないよ。御祭りの準備にしたってここまで余裕無しにやるものじゃないでしょうにね」
 ヒコが首を傾げる。ユーナは宮殿の奥の屋根が損壊している事に気が付き、目を細める。
 「お祭りってなに? そんなのあったっけ」
 「やだヒコ、ここの人に聞かれたらどうするの。お祭りって言ったらジパングの建国祭じゃない。ヒミコ様がジパングの平和を神様にお願いする今年の一大行事よ」
 「は?」
 ヒコは目を見開く。サクヤが今何を言ったのかヒコは理解が追いつかなかった。
 サクヤが口にした人物の名前をじわりじわりと記憶の底から引き摺り出して、ヒコは漸く悪寒を携えた危機感を得る。
 生き返った姉、覚えの無いジパングの祭、女王ヒミコ、次々と浮かんでくる疑問の奥に深紅の舌がちろりと覗く。
 ヒコは全身に鳥肌を立たせて宮殿を見上げる。そして、ユーナへ汗を浮かべた顔を向ける。
 「・・・ユウ、あの人はほんとーにここに行くって言ったんだよね?」
 「そうだけど? なんだよ、おい」
 ヒコはユーナの手を引きサクヤから少し離れた場所で耳打ちする。
 「けつろんだけ言うから、ちょっとかくごして・・・・・・あの人のこと、さいあくを考えておいて」
 「おまえ! 言って良い事と悪い事があるぞ!」
 予想したくなかった可能性をヒコに告げられユーナは憤慨した。ユーナはヒコを突き飛ばし、仇を見るような眼でヒコを睨みつける。
 ヒコは突かれた肩を抑え、ユーナを睨み返す。
 「ほんとーのことを言っただけだよ! じっさいキミの所にかえって来なかったんでしょ!? なに怒ってんの?」
 「ラティアがそう簡単に死ぬかよ! 魔王だって倒せるような魔法使いが、昨日の今日で!」
 「それはキミがみとめたくないだけ! あたしは今のジパングならなにが起きてもおかしくないって分かってる! もしかしたら、今、大まおうが攻めてくると言われてもあたしは信じてしまうかもしれない!」
 「ヒコ! やめなさい!」
 ヒコはサクヤの制止を無視し、鈍、と氣を乗せた足裏で石畳を踏み抜き『近寄るな』と警告する。
 「おねえちゃん、あとでいくらでも怒っていいから今だけだまってて」
 鬼気迫るヒコの表情にたじろんだサクヤは複雑な表情を浮かべ、その場で事の成り行きを見守るしかなかった。
 ユーナは充血した眼でヒコに対峙する。
 「ラティアは死んだりしない・・・アルスもそうだ・・・・・・取り消せよ・・・」
 歯を剥きだしに、ユーナはヒコに向かって吼える。
 「おまえ
! さっきの発言、撤回しろよ!」
 ユーナはヒコが正面に移動してきたのを知覚できなかった。衝撃で砂利は舞い上がり、視界を塞ぎ、ユーナはヒコの攻撃がどこから来るのか予想できない。
 パン、と乾いた音がユーナの頬から発せられ、ユーナは晴れた視界の中に冷たい表情で腕を振りぬくヒコを捉えた。
 じわりじわりと痛みを増していく頬を庇いながら、ユーナはヒコを呆けた顔で見下ろしている。
 「ユウはまだ、ほんとーに大切な人がいなくなったことないんだね。だからそんなにゆーちょーなこと言っていられるんだ」
 ヒコの言葉がいつもよりずっと重みを増してユーナに圧し掛かってくる。ヒコは唇を噛みしめ拳を握る。
 「ユウ、あたしはケンカしたいわけじゃないんだよ。もしも・・・ほんとーにそうだった時、心のじゅんびをしていないと・・・ユウはきっと壊れちゃう。いろいろ考えすぎて」
 ヒコの瞳が潤む。しかし声は明朗に、想いを乗せてユーナに届ける。
 「あたしはバカだから、あんまり考えなかったけど・・・それでも、今でも、あたしはっ!」
 ヒコはサクヤを見る。ユーナはヒコが視線を逸らした理由が分からなかったが、ヒコの真摯な様子に頭の熱が引いていくのを感じていた。
 「・・・・・・わかったよ」
 低くユーナは呟いた後、頭を押さえる。
 引く気は無かった筈なのに、ユーナは自分の口から出た言葉に内心驚いていた。ユーナは不本意な発言を撤回する気力も無くして、その場で脱力する。
 「・・・おまえに八つ当たりしてどうこうなる話でもないもんな、正直。なにやってるんだ僕は」
 自嘲しながら、ユーナはヒコの肩にホイミをかけてやる。淡い魔力光が灯り消えようとした時、サクヤの手がヒコの肩に置かれた。
 「ユーナ、ごめんなさい。ヒコが叩いた顔、痛かったでしょう」
 「いや、違うんだサクヤ。僕がついカッとなったから・・・そいつは悪くない。あまり怒らないでやってくれないか」
 サクヤは屈みヒコと目線の高さを合わせた。
 「ヒコ」
 ヒコは叩かれても仕様が無い、と覚悟を決め目を強く瞑った。
 ヒコの両肩に手が置かれる。そっと、咎める気は無いと諭すように。
 「私にはあなた達が何が理由で揉めていたのかは分からないけど、仲直りしたと思ってもいいのかしら?」
 棘を削ぎ落とした声で訊ねるサクヤに、ヒコは頷き応える。
 「それはよかった、でもヒコ? ちょっとやり方が乱暴だったように見えたな。ユーナが怒ったのだって、それなりの理由があったからなんでしょう。もう少し慎重に言葉を選んだ方が良かったと私は思うよ。例えヒコが正しい事を言っていたとしても、その正しい事で傷ついてしまう人はいるから」
 「ユウ・・・ごめんなさい」
 ユーナはどう受け止めて良いものか戸惑い、返事とも何とも受け取れない呻きで応えてしまう。
 「それとユーナ」
 サクヤは立ち上がり、ユーナに歩み寄り顔を近づける。頭二つ分程下から見上げてくるサクヤの眼力に、ユーナは一歩後ずさった。
 「いくら頭にきたからって手をあげるのは大人気ないよ?」
 「う・・・・・・・・・めん」
 目を逸らしながら呟くユーナの両頬をサクヤが両手で挟み込む。ユーナは驚いて後退しようとしたがすぐに距離を詰められてしまう。
 「なんて言っているのか聞き取れないよ、ユーナ」
 笑顔でユーナの顔をがっちり掴んで放さないサクヤに、ユーナは初めてヒコと同じ恐怖を味わう。
 「・・・ぉめん」
 「大きな声で」
 サクヤの眼は笑っていない。ユーナはルイーダの他にこんな表情をする女を知らない。ユーナが思いつく対処法はひとつ、相手に大人しく従う事だけだった。
 「ごめん! ヒコ! 僕も悪かった!」
 「ん、よろしい」
 サクヤから開放されてユーナは膝をつき項垂れる。恐怖は次第に薄れて敗北感が残った。
 そして、サクヤに触れられていた両頬に残る体温が生々しさを保ったまま、いつまでも消えないでいる。
 心臓の鼓動がユーナの思考を阻害する。
 「ユウは泣き出さなかっただけエライよ」
 「嬉しくない同情だな・・・」
 ヒコに慰められ、肩が地面に落ちる程にユーナは落ち込んだ。

 「ちょっと、何か変な声が聞こえると思ったら、またあんたなのサクヤ」

 「あ、アタエじゃない。久しぶりー、祭りの準備で全然会えないから退屈だったよ」
 宮殿の方から歩いてきたアタエと呼ばれた女は、サクヤ、ヒコ、ユーナと視線を移し、サクヤの方へ口を尖らせる。
 「どこが。賑やかに喧嘩しちゃってまぁ、しかも宮殿の正面で。皆忙しいから取り合わなかっただけで、普段だったらあんたら留置所で詰問されている所よ」
 よくよく見ると、三本鳥居や宮殿入り口の衛士達が迷惑そうに渋い表情でユーナ達の方を睨んでいる。
 「じゃあアタエは暇なんだね、これからお茶に行かない?」
 「あんたらをどうにかしろと言われたから来たのよ・・・ったく賊騒ぎで忙しい時に」
 ユーナとヒコが反応して顔を上げる。サクヤは奥の院が損壊しているのに気が付いた。
 「うわ、賊って本当? 時期が悪いなぁ、お祭りに支障が出ないといいけど」
 「支障があって大慌ての時に騒いでた人の台詞とは思えないわね」
 背後から抱き締め力を込めるアタエに、サクヤは嬉しそうにはしゃぎ痛がる素振りも見せない。
 その様子を傍観していたユーナとアタエの視線が重なる。ユーナはアタエの腕に押し上げられていたサクヤの胸を見ていたのを気づかれたかと思い、顔を真っ赤にして明後日の方へ向いた。
 「え、外人?」
 アタエの表情が急に険しくなる。ヒコはアタエとユーナの表情を窺い首を傾げる。
 サクヤを放したアタエは早足でユーナに近づくと、その袖を掴んで人気の無い林の入り口へ連れて行った。
 「ちょっと、何を」
 「大きな声は出さないで、お互いの身の為にも」
 木陰に隠れ、アタエは辺りを見回し衛士が居ないのを確認する。ユーナはサクヤ程ではないにしろ、近い年齢の異性に近づかれ再び心臓が早鐘を打つ。
 呼吸を整える為深く息を吐いたアタエは平手を胸に遣り、緊張を落ち着ける。
 「いきなりこんな事をして御免なさい。私はアタエ、ジパングの次官にして『元』最高権力者の一人。このジパングがおかしくなる二ヶ月程前まではね」
 「・・・『元』?」
 再び視線を周囲に警戒させたアタエは、更に顔を近づけてユーナの耳を打つ。
 「そう『元』。長いことここで話してらんないから肝要な所だけ言うわ、多分君が探しているであろう人物、まだ生きているわ。地下の牢屋に」
 「ラティアが!」
 アタエは不敵に笑い、ユーナの口に人差し指を当て沈黙させる。
 「やっぱりそうなのね、昨日の今日で宮殿を訪れる異邦人。まさかと思ってたけど良かったわ。もし人違いなら今の会話一切合財忘れてもらうところだったから」
 胸を撫で下ろすアタエと、血の気が引いていくユーナ。一体どんな方法で記憶を消されていたのか、とユーナは訊ねる気にならなかった。
 「それと最後に、明後日の祭りの日まで宮殿には近づかない事。大三本鳥居をくぐるのも駄目。とにかく、明後日まで我慢しなさい。祭りの日なら助け出せる好機がきっとあるから」
 有無を言わせず、アタエはそれだけを告げると林を抜け出しサクヤとヒコの下へ歩いて行く。
 疑問が完全に払拭できなかったユーナは難しい表情で、しかしラティアが生きているという事実に希望を見つけ、アタエの後を追った。
 「なになに? アタエとユーナって知り合いだったの? えー、どういう関係?」
 「この耳年増は面倒臭いわね・・・初対面よ。ただちょっと進入してきた賊について心当たりが無いかを訊ねていただけ、わかった?」
 「つまんなーい」「こいつは」
 頬を膨らませるサクヤの耳を両側から引きながら、アタエは意地の悪そうな笑みを浮かべる。
 「そういうあんたこそどうなのよ、ん? 往来の真ん中で男の顔を挟んで息も掛かりそうなほど近づいていたような気がしたんだけど、ねえ」
 アタエがユーナを見遣る。言葉の意味を理解したユーナは先程の事を思い出して顔を赤らめた。
 サクヤはアタエの肩を叩いて哄笑する。
 「やだアタエったら、そんなんじゃないよ。ちょっとお小言を言っていただけだから」
 「ふうん?」
 ユーナとサクヤを交互に眺めてアタエは顎に手を遣る。
 「でも、ユーナは彼女さんいるんでしょ? ラティアさんだっけ」
 「いやいや! 彼女じゃないよ! ラティアはただの幼馴染! それにラティアにはアルスがいるから! ラティアが彼女とかありえないし! 色んな意味で・・・」
 「ユウ、なにひっしになってるの」
 ヒコは呆れた様子でユーナを横目で睨み、アタエはにやにやと薄笑いを浮かべている。
 「え? あ、そうなんだ。意外だねモテそうなのに」
 アリアハンの魔法馬鹿で名の通ったユーナは、ナジミの塔に篭りっきりだった生活を思い出し、今更ながら枯れた青春だったと振り返った。
 「それで、ユウ。どうすんの? ここの人たち、どう見ても話をきいてくれるほどヒマじゃなさそうだけど」
 「そうだな、これじゃあお祭りというのが終わるまでは無理そうだしな」
 ユーナはヒコに目配せする。ヒコはすぐに感づき、アタエが幻術に侵されていない事を知る。
 「建国祭までは大人しくしていることにするよ。それで、もう少し迷惑かけるんだけど、大丈夫かなサクヤ?」
 「いいよいいよ、ユーナなら大歓迎。風呂焚きや料理の時に魔法で火を出してくれるから、とっても助かってるの。タケの相手もしてくれてるし、なんならこのまま住み込んじゃう?」
 「まるで婿養子ね」
 「やだアタエ、ヒコはまだお婿さん貰うような年じゃな・・・」
 何かを言わんとしているアタエの表情を読み取り、サクヤは周囲を見渡した後、若干戸惑い頬を桜色に染めた。サクヤがユーナを恐る恐る見遣ると、湯だった蛸のようになったユーナがヒコに脹脛を蹴られている。
 「それじゃあ、私は次官補候補生の仕事があるからこれでお暇するわ、ひひひ」
 いやらしい笑い声と呪詛を残してアタエは宮殿の方へ去って行った。残された一同は何を合図するわけでもなく無言で先程くぐって来た道を辿る。
 ヒコはユーナの裾を引く。
 「ちょーしにのんないでよ。あと、なにか分かったんでしょ?」
 「なんだよそれ・・・まぁ、とりあえず生きてはいるらしい。それ以上は教えてくれなかった」
 ヒコはひとつ息を吐いた。ユーナはヒコに気づかれないよう口の端を上げる。
 「それと、祭りの日まではここに来るなと釘を刺されたよ」
 「なんで?」
 「知るかよ。でも、ラティアが負けるほどの要因がここにあるんだろうな。今は迂闊な事はできない、チャンスが来るって言われているんだから、それに頼るしかないよ」
 「アタエさんのゆーとーりにしてたほうがけんめーってことか」
 一本目の鳥居を抜け、大通りに出たユーナはこれからどう過ごしたものか、と山々に囲まれるジパングの風景を何気なく眺める。
 ヒコは先を歩くサクヤを呼び止めるが、サクヤは正面を向いたまま二人の方へ振り返らないでいる。
 「おねえちゃん、どうしたの?」
 「や、ヒコ、今はちょっと駄目・・・本当、ちょっと見ないで」
 ヒコが回り込んでサクヤの顔を除こうとしても姉はヒコから逃れるように顔を背け、しばらく二人はその場を旋回していた。
 「サクヤ、気分が悪いのなら、僕がホイミを」
 「ひゃっ!」
 ヒコと逆から回り込んできたユーナにサクヤは反応できずに顔を上げてしまう。勢い余ってユーナに凭れるサクヤは上気した顔で困惑した表情をしていた。
 「ゆ、ユーナ、えと、その、あ」
 「大丈夫?」
 ユーナは練成した魔力でホイミを生成し、サクヤの額に平手を被せて治癒を試みるが紅潮は一向に治まらない。
 ユーナの表情が険しくなる。サクヤは口を開閉し言葉にならない音を漏らす。
 「これは、新手の呪術か・・・? 媒体を使わずに呪いを対象に与えるのは並の術者じゃ不可能だぞ、しかも禁呪ときたら魔物か破戒者。若しくは魔王級の魔族! サクヤ、今すぐに解呪できる神官の所で然るべき処置を受けないと! 大変な事に!」
 「げーいんはおまえだあ! おねえちゃんから離れろこのまほーバカ!」
 「あぶなっ! 今頭狙っただろおまえ!」
 獣のように唸りながらサクヤを庇うヒコに、魔力を溜め臨戦態勢を採るユーナ。サクヤは気を動転させたままヒコを制止しようとおろおろしている。
 結局、ユーナとヒコの乱闘は宮殿から駆けつけたアタエと衛士数名が始末をつけるまで行われ、三人は野次馬犇く往来で正座させられ小一時間説教される破目になるのであった。

 

 

 

 ジパング建国祭まであと一日。
 そして、各々思惑を抱えたまま祀りの儀は刻々と近づいていく。
 幻想を知りながら事実を知らぬ者、泡沫の夢を良しとせず牙を研ぐ者、何も知らずに時を待つ者、三者は三様に日が昇り沈むのを見過ごす。

 夜が白み朝が来る。産声を上げる。
 
 ジパング建国祭当日。
 ぎらぎらと息吹く天帝は万物を燃やし尽くさんと空を闊歩する。
 風は凪ぎ、蟲や鳥のさえずりさえ途絶えた事を、騒ぎ群れるジパングの民達は誰一人として気が付いていない。
 獣は巣に帰り、ただその日が過ぎるのを待つ。人は知らない、家畜が小屋の隅で声も出せずに震えている事に。
 青ざめた空がうっ血し紫、次第に血の色に染まり行き鮮やか、大気に晒され黒ずみ夜が訪れる。
 宮殿を擁する丘の裾野に二股、道が篝火によって示された。祭りの見物客は衛士や文官達によって宮殿裏手の拓かれた祭儀場に誘導される。
 喧騒の人波にユーナとヒコ達一家が流されていく。後戻りできない強大なうねりは着実に祭儀場を満たしていった。
 三刻ばかり過ぎ、いよいよ人は募り、月は頭上まであと少しとまどろみの中を漂う。
 ユーナは祭壇から見て群集の中程で人気に当てられて圧倒されていた。数も然る事ながら密集率が半端ではなく、隣で身体を密着させているサクヤの体温が生々しく伝わってきて動悸が止まらない。
 サクヤも意識しているのかほんのり顔を赤らめユーナの方を見ないように努めている。
 ヒコが二人の間に割って入ろうにも人波の圧力がそれを許さずに、ヒコはユーナに向かって犬歯を剥き出しにする事しかできない。
 ミコトは祭儀用の剣を奉納する為に、祭壇の下で近衛長代理オグナと並んでいる。
 クシナダはタケの手をはぐれないよう確りと握り締め、タケは儀式が始まるのを今か今かと待ちわびている。
 人の流れが落ち着いた頃、辺りの篝火がひと時激しく燃え上がり、ジパングの民に始まりの合図を告げる。
 静まりゆく喧騒の中、祭壇の袖から儀礼服に身を包んだヒミコが現れた。
 少しのどよめきの後、祭壇に登るヒミコを静寂が迎える。ヒミコが身に着けた装飾が擦れ合い、闇夜に透き通る。一歩一歩踏み出し段を上がるヒミコから、誰もが目を離せずにいた。
 月が眠る。瞼を伏せ、下界を拒絶した。
 ヒミコが壇上に上がる。ミコトはオグナに剣を渡し、恭しく祭壇の傍らに移動した。
 オグナはそれを布に包み、掲げながら壇上のヒミコに献上し、祭壇を降り控える。
 ヒミコは剣の布を払い、鞘からするりと刀身を抜き出し一振り、天に掲げる。そして祭壇に突き刺し儀仗の代わりとする。
 「よい夜ぞ」
 魔力で拡声された言葉が祭儀場を走る。人々はその魔力に身震いし鳥肌を立てる。数人、感激のあまり気絶し周囲の者に介抱される。
 ユーナは、ただ、感じた事の無い異質な魔力に飲まれないよう気を張った。
 ヒミコの視線がユーナの居る方向へと向けられる。ヒミコはにやりと嗤った後、正面に直り言葉を紡ぐ。
 「日ノ本の盛行を祈るには此れ程の好機は後にも訪れぬであろう。正に吉日、天は我に在り、我は天に擁されし真の御子である証ぞ

 ヒミコは魔力を視覚化させ、壇上を七色に染まる渦で包む。
 人々はその神々しさに目を奪われ、ヒミコの立ち位置を神格化させ絶対のものとする。ある者は手を合わせ涙を流しながらヒミコを仰ぐ。
 ユーナは魔力を魔法耐性に注ぎ、迫り来る魔の暴力に必死で堪えている。
 ユーナは気づいている。この恐ろしい程の魔力を持つヒミコがラティアを下した張本人であるという事に。
 異質な魔力は吸収する事もできず、ユーナは濁流の中岩にしがみ付くかのように神経を磨り減らす。
 「時に、先日一匹の賊が我の寝所に侵入し、我を屠ろうとした」
 群集がざわめく。殺意が立ち昇る。
 「然し案ずるに及ばず。我が遅れを取る事など在らず、其の下郎を捕らえた」
 ヒミコは片手を挙げオグナに合図を送る。オグナは控えの衛士に指示を出す。
 祭壇脇の暗闇から衛士が数名、後ろ手に魔力強化された縄で拘束された人々を連行してきた。
 ラティアを先頭に、ヤマトや名前の知らぬ罪人達が一繋ぎにヒミコが居る場所の数段下の壇上へと登らされた。
 向かうべき的を見つけた殺意が一行に浴びせられる。
 ラティアは周囲を見渡し状況を確認、ヤマトは薄ら笑いを浮かべながら足裏で片方の脹脛を掻いている。残りの者は群集の圧迫した殺意に飲まれ、立っているのもままならない様子である。
 「此れに並べるは其の下郎を始め、我に牙を剥いた不忠の賎民や規律を犯した罪人共である」
 ユーナはラティアの姿を認め、少しの安堵とこれから何が起こるかの不安を抱いた。
 眉間に皺を寄せ事態を見守るしかなく苛立つユーナの手をサクヤが握る。ユーナは驚くが、壇上から目を離せない。
 「サクヤ・・・?」
 「お願い、ちょっとだけこうさせて頂戴」
 小刻みに震えるサクヤの畏れが合わさる肌から伝わって、ユーナはハッと思い出す。サクヤはあくまで一般人であり、魔力耐性も何もないままここに居る事を。
 「ヒミコ様は、素晴らしいと思うけど・・・少し怖いの、心臓の辺りが握られているようで」
 ユーナは黙ってサクヤの手を握り返す。自分に施していた魔力障壁をサクヤに分け、ユーナ自身は唇を噛み締め魔力圧に耐える。
 「不思議、なんだか落ち着いてきた・・・ユーナのおかげかな、ありがと、もう大丈夫」
 離れようとするサクヤの手をユーナは放さずに確りと握った。
 「落ち着くのならこのままでいいよ。僕は構わないから」
 サクヤは少し俯きユーナの手を握り返した。
 ヒコはユーナが何をしているのかを理解していた。だからこそユーナを責めず、姉に何もしてあげられない自分を責めた。
 「ジパングの民草よ、知りえて居るか。此の世で最も純粋で強大な魔力とは何かを」
 ヒミコは剣を引き抜き、眼前に構える。
 「其れは生命、魂。揺ぎ無き唯一。其の輝きこそ至高の魔力! 瑞々しき宝玉!」
 ヒミコの声が徐々に高揚していく。動きを大胆に、調子も何も無視してヒミコは剣を振り回し踊り狂う。
 身体を仰け反らせてヒミコは天を仰ぐ。
 「そして、此れに並べた者共をジパング盛況の人柱とする。罪人とて御魂は宿る。その魔力を我が喰らい、我が絶対の力を手にする!」
 話の流れがおかしくなってきたのをラティアとヤマトは目配せで確認する。ヤマトは視線をオグナに遣り、何かしらの合図を送る。
 「だが、残念な事が在る。其処な罪人共の命だけでは足りぬのだ、魔力が圧倒的に足りぬのだ! 更に魔力を喰らわねば我は神には成れぬ! 神卸しには供物が肝要だ! 命が足りぬのだ!」
 ヒミコが跳ねるように身体を起こす。身体の節々から漆黒の魔力を立ち昇らせながら、その口角は耳にまで届かんばかりに裂けていた。
 
 「死が、足りぬのだ」

 怨。
 何かの唸り声が響いたかと誰もが辺りを見回した瞬間、祭壇の下段から巨大な柱が天に向かい伸びた。
 人々が呆気にとられている静寂に奇怪な音がこだまする。
 水分を持った何かが潰されるような、固い物質が纏めて折られるような、両者が相混ざった不快な音が天から聞こえた。
 皆一同に空を見上げる。月の無い漆黒に、篝火に照らされる柱を辿り視線は上へ。
 闇夜に光る深紅の魔眼が二つ。
 その顎門に捉えられる人形が鮮血を滴らせて食い千切られた。
 深緑の鱗は炎に彩られ禍々しさを増す。
 柱と思われたのはうねる頚椎、巨大な蛇龍の胴。
 それを龍だと認識した人々の顔から血の気が引いていく。ヒミコはその様子を眺め狂い嗤った。
 身体を捩じらせて、壇上に転げ回り抱腹し哄笑しながら嘲笑する。
 「グハハハアハハハハッハアハハハッハハ! 喰らえ喰らえ喰らえ!」
 地が鳴動し、大地が裂ける。轟音が月の無い夜空を蹂躙する。
 祭壇を中心に続けて龍の首が姿を現す。
 ジパングの民は誰一人動けずに居た。何が起こったのかを理解する時間は彼らには無かった。
 待ち受けているのは一方的な虐殺、捕食。それだけの事を予想するまでに随分の時間を要する。
 ヒミコの身体が膨張し、顔や手足には龍麟が犇き、祭壇から涌き出た胴体によって天空へ上昇する。救いの御子であった筈のヒミコが魔物と化していく有様に、ある者は膝をつき立つ気力さえ失った。
 虹色の魔力は消え去り、祭儀場に漆黒の風が吹き抜ける。
 (その胴、八つにしてひとつ)
 誰とも無く、ジパングに古から伝わる御伽噺を頭の中に思い出していた。
 (山ひとつ跨がんばかりのおおくちなわ、村ひとつ一飲み)
 龍が吼える。八柱の咆哮がジパングに響く。
 (なす術なし怪物、生贄にてその怒りを静めるほかなし)
 ヒコはその体躯を見上げ、ぽつりと呟く。
 「・・・ヤマタノオロチ」
 
 そのおおくちなわ、八岐大蛇と人々名付けん。

 

 

 

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