7 - 3

 

 人の波が逆流する。
 悲鳴と怒号が併さり肉の濁流と化す。
 誰かが足を縺れさせ転げたが、その誰かは無数の脚に骨身を砕かれやがて事切れた。
 誰かが死体に足を取られて、またその誰かに躓いた誰かが倒れ、将棋倒しに積み重なっていく。先に倒れた誰かは大量の血を吐き息を引き取った。
 子供が泣いている。親に抱えられ、生存本能を剥き出しにする人間に感化され、どうしていいか分からずに叫んでいる。その親も泣いている。ただ生き延びるために、我が子を守る為に奇声を上げながら必死に走る。
 流れの一部が裂けた。
 遥か上空では僅かな悲鳴の後、誰かが纏めて噛み砕かれる厭な音が聞こえた。
 断裂した流れの手前に居た者は、目の前で上半身を失った人型を直視して気を失った。
 それでも人々は血溜まりの中を、臓物の上を踏みしめながら走る。もはや正気ではない、純粋な狂気。
 ヒミコの魔力に中てられた上の混乱に狂気は伝染してく。爆発的に、誰にも止め様の無い速度で丘の裾野で押し合い圧し合い殺し合い。
 八岐大蛇が愉しそうに天に吼える。
 「ぬおおおおお! 吻ッ!」
 大気を弾かせヤマトが後ろ手の拘束縄を引き千切る。ラティアも続いて縄の魔力障壁を打ち壊し、メラの炎で焼き切る。
 「オグナあ! 草薙を寄こせい!」
 「近衛長! これに!」
 オグナが投げた草薙の剣をヤマトは器用に柄を掴み、振り構える。
 久方振りに見る上司の雄姿に、オグナは戦意を高揚させ周囲に檄を飛ばす。
 「動ける兵士、戦意の十分な兵士、誰でも構わん! 今此処にて荒神めを打ち倒さん気概のある者を集めろ!」
 「アンタ、今この状況でアンタ達みたいな馬鹿が両手の数ほどいると思ってんの!? 指揮官なら士気をどうにかしなさいよ!」
 「なら俺がなんとかしよう」
 八岐大蛇の咽下が赤く発光し、群集に向かい灼熱の炎を浴びせかける。
 ヤマトが地面を氣で蹴り上空に跳ねる。体を縮め腰に溜めた大刀を炎目掛けて横一線に薙ぎ払った。
 蒼い闘氣が空を走り、大蛇の息吹を飲み込み大気に還す。
 着地したヤマトは休まず、迫り来る一頭を足場に挟撃しようと試みる二頭目に袈裟切りを浴びせる。
 しかし、強靭な大蛇の外皮はヤマトの剣閃を弾き、鱗一枚剥がすのみを許した。
 再び地面に足を付けたヤマトは大きく息を吸い込み、群集の悲鳴を押し退ける大声で叫ぶ。
 「おおおおおおおお! 兵士共お!! 俺が立つ! 俺がクチナワを切り伏せる! 然らば力を貸せえ! お前らの力を俺に委ねえ!!」
 ヤマトの草薙が煌きジパングの民を焼き払わんとする大蛇の炎を消し去る。
 巨像に挑む蟻の子一匹が、その牙のみを武器に目の前の敵を倒さんと吼えている。驚き戸惑う兵士達の幾らかの瞳に炎が宿る。
 「俺の背中あ! お前らに預けるッ!!」
 「近衛長! 筆頭は自分めが!」
 オグナが走り、ヤマトの背後から強襲する大蛇の首を受け止める。だが受け止めるだけが精一杯で、攻撃姿勢の取れないオグナは大蛇の口内が発光するのを認め、死を覚悟した。
 「イオナズン!」
 家一軒程の大きさの龍の頭部が大爆発により地面に沈む。
 「まだ十分じゃない! アンタだけ心酔してもしょうがないじゃない! って、効いてない!?」
 「あれ程の術式を!?」
 「何こいつ! 何もかもが以前と段違いじゃないの!」
 首ごと地を陥没させたラティアのイオナズンをものともせずに、大蛇は己が身を振り回し辺りの物を何彼構わずに薙ぎ払う。
 一頭二頭ですら相手にできない化け物が八頭揃い、圧倒的な暴力の嵐により祭儀場を血の雨で彩る。
 その最中に立っていたのはラティア、オグナ、ヤマトの三名。
 兵士達は目の前で起こっている未曾有の災害に、三人が生きている望みを捨て、戦意を喪失する。
 嵐が止み、大蛇が勝ち鬨と吼える。
 兵士達は目を見張る。
 誰もが不可避であると信じて疑わなかった死線をラティア達は越え、両足を確りと地に留めている。
 ラティアの正面をオグナが、背後をヤマトが守り、ラティアは両名に身体強化魔法バイキルトを、全員にスクルトを施していた。
 「この! 大魔法使いを! 二度も舐めんじゃないわよ!!」
 最上級氷撃魔法マヒャド。巨大な氷の花が大蛇を貫かんと枝葉を伸ばしたが、その堅牢な皮膚を貫くには至らずに悉く噛み砕かれてしまう。
 「ホラ、足場!」
 ラティアの合図と共にヤマトとオグナが氷柱群を駆け上がり、近場の一頭に二人掛りで太刀を浴びせる。
 ラティアは魔力を練成し、バイキルトを更に強化した。
 「うおおおおおおおおおお!」「ああああああああああ!」
 男二人地面に揃い落ち着いた瞬間、大蛇の頭部が縦に裂け大量の血液が大地に降り注ぐ。
 太刀傷はひとつ、惜しくも鱗を破る事はできずオグナは折れた刀を手に奥歯を噛み締める。反対にヤマトの草薙の剣は輝きを保ち、刀身に付着する大蛇の血を蒸散させた。
 兵士達が歓声を上げる。
 彼らは武器を取り、己を鼓舞し、気合を雄叫びに乗せて戦場に闘氣を滾らせる。ひとり、またひとりと向上していく士気は疾風のように広がる。
 兵士衛士は一同に並び、ジパングの民の背中を守る為に八岐大蛇に向け牙を向く。
 小賢しい、と大蛇が咆哮し威嚇するが兵士達は引かず、顔を引き攣らせながらも吼え返し戦意を示した。
 ヤマトはにやりと笑い、大蛇に向かい草薙を振るう。
 「それでこそ日ノ本の武士よ! いざ立て一騎当千の兵共! 蛇狩りにて候!!」
 「「「蛇狩りにて候!!!」」」
 大蛇の声を押し返さんばかりの怒号が大気を震わす。
 (士気は十分、後はどう倒すかだけど)
 ラティアが中級爆発魔法イオラで大蛇の首を逸らしながら思案していると、後方の陣営から夜空に軌跡を残して魔法が打ち出されてきた。
 「ほらほら! 脳味噌筋肉共に後れを取らない! 私達ジパング宮廷魔術師も全力で迎え撃つのよ! 魔力の足りない人は他と集中して放火! あっちの魔法使いみたいに大蛇の軌道を逸らして兵士達を補助しなさい!!」
 巫女装束に身を包んだアタエが陣頭指揮を執り、兵士の後方構える文官達に檄を飛ばしている。
 「手が空いている人は前方の壁共に強化魔法かけて! 負傷者は確認次第回復! 魔力切れ起こしそうな人は後方の市民救助と誘導に手を貸して!」
 各隊に素早く伝令が回ると、術士隊は各々兵士の後方に陣取り戦況に合わせて行動を開始する。
 先程まで腑抜けた人形であった軍隊に魂が宿る。
 蟻塚に足を踏み入れた大蛇は、無数の牙にその咽笛を狙われていた。勝てない等と弱音を吐く者は誰一人として居ない。誰もが牙を研ぎ機を待っている。
 「ん?」
 ラティアがふと気づく。眼前聳える大蛇に抱く違和感。
 「ちょっと! ヤマト!」
 「なんじゃい!」剣の腹で大蛇の頬を弾き、ヤマトは耳だけをラティアに傾ける。
 「アンタがさっき斬り付けた大蛇、どれよ!」
 「そんなの刀傷を見れば分かるだろうに! ん、んん? 無いのう!」
 ヤマトは前線から引き、遠目に八岐大蛇を眺めるが先程自分がつけた刀創を終に見つけることができなかった。
 「『無いのう』じゃない! アンタちょっと試しにもう一回ズバッとやりなさいよ!」
 「勇者殿は無茶を言いなさる! あれ以来クチナワの動きが厳しいと云うのに!」
 泣き言を叫びながらもヤマトは構え力を溜める。
 様子を察した後方のアタエが術士隊に指示を飛ばし、ヤマトに数十人分の身体強化魔法を重ね掛けさせる。
 僅かな残像を残し、ヤマトは右方から迫る大蛇を迎え撃つ。ピオリムで加速しバイキルトで強化され、岩さえ豆腐のように切り裂く剣閃が大蛇の顎を捉える。
 姿勢を低く草薙の剣を上段に構えたヤマトは、渾身の力で剣を振りぬく。
 八岐大蛇の顎が裂け、骨身が覗く。激痛に耐えられなくなった大蛇は叫び声を上げ空高くに避難した。
 ラティアは他の首との間合いを測りながら傷ついた一頭を目線で追いかける。横合いから襲ってきた大蛇を爆発で逸らすと追跡していた一頭を見逃してしまい、ラティアは兵士達の待機する後方まで退避した。
 兵士の一部から困惑の声が上がる。それは濃かれ薄かれ悲哀の色が混ざっていた。
 ラティアは急いで空を見上げる。
 夜空に煙が上がる。傷ついた大蛇の刀創から蒸気のような靄が立ち昇り、裂けた顎を驚異的な速度で再生していく。
 ラティアは乾いた笑いを零す。
 「魔法は通じない」
 身体を宙に持ち上げられたヤマトは足裏で刃の腹を押し出し、大蛇の体当たりを受け止める。
 「渾身で斬れども創たちまち塞がり」
 身体強化でやっと大蛇の攻撃をいなせるようになったオグナは士気を下げないように、と吼えて気合を飛ばす。
 「愈々以って成す術無し・・・か?」
 市民の被害報告を受けていたアタエは、どちらの報せにも苦虫を噛み潰した表情で思案する。
 「何か、この状況を打破する手立ては無いのか!」
 その時、ラティアを始め魔法の心得が有る者は身の危険を感じた。途轍もない魔力流が大蛇に向かい雪崩れ込み、今から未曾有の事態が起こる事を示している。
 八頭の大蛇が一斉に口を開く。アタエは素早く術士隊に魔法障壁を展開するように指示する。
 ラティアはヤマトとオグナを呼び寄せ、三人と後方の数十名を保護できる巨大なマホカンタを張った。
 オグナが叫ぶ。
 「伏せろおおおおおおおおおおおお!」
 「「「メラゾーマ」」」
 八つの呪いが紡がれる。流星の如き火球が八筋、夜空に軌跡を残し地上を焼き掃わんと降り注ぐ。
 轟音が鼓膜を揺るがす。炎が肌を焦がす。大地が揺れる。
 誰もが、世界の終わりを思った。

 

 

 ユーナは見上げていた。目の前の巨大な魔物を。
 見たこともない体躯、感じた事のない迫力、凄まじいまでの存在感。
 これが魔物の上に立つ化け物の中の化け物、魔王と呼ばれる魔族なのだ、と震えるユーナの身体が教えてくれている。奥歯がガチガチと鳴り合わせ思考にノイズを走らせる。
 冷静に成りきれないユーナができたのは氣で全身を強化したヒコを先頭に立たせ、自分とヒコ、サクヤとタケとクシナダをスカラで補強し、迫り来る人の波を受け流す事だけだった。
 より強い魔力伝導を保つ為に左手をヒコ、右手をサクヤに繋ぎユーナは身体強化に意識を集中させる。右手から伝わる温もりを失わないように、と強めに握り締めたユーナにサクヤは不平ひとつ言わず、握り返す事でその意を返す。
 サクヤの左手を握るクシナダの腕の中で、タケが群集の狂気に飲まれ泣き喚いている。
 ユーナがヒコの横顔を見遣ると、ヒコは遠く蠢く八岐大蛇を睨み今にも飛び掛らんばかりに牙を剥いている。
 ユーナに戦慄が走る。ランシールの時と同じヒコの揺るがぬ瞳。
 (こいつは、また・・・・・・どこから、そんな! 無謀でしかないだろ! ・・・この状況で!)
 遥か前方で感じ慣れた魔力と共に轟音が響き、こちら側に向かって吐き出された炎が青白い光によって打消されているのをユーナは確かめる。
 幼馴染のラティアは立ち向かっている、あの途轍もない怪異に。連続して打ち出される魔法が、ラティアの生存を教えてくれている。
 ユーナはスカラに集中しながらも途方に暮れていた。
 兵士達の雄叫びが聞こえる。八岐大蛇が地の果てまでも響きそうな咆哮で応える。ユーナの周囲で、気の弱い者が幾人か気絶し地に伏せた。
 ユーナはあの渦中に踏み込んで生きて帰れる未来を想像できなかった。
 陣を組んだジパング軍の後方から術士隊の援護が煌く。遠く眺める大蛇の一頭が盛大に血飛沫を上げている。誰かに因って齎された会心の一撃で軍の士気が上がる。
 ユーナは、この状態を維持する以上の術を探す事ができなかった。
 「ユウ!」
 畏れに沈むユーナの手をヒコは強く握る。闘志滾る瞳で思考の泥沼からユーナを引きずり出そうと試みる。
 「前に! ここをぬけるよ!」
 「ば、馬鹿言え! お前の家族だっているんだぞ! 何考えてんだ!」
 「ここにいるほーがキケンだよ! 動けないじょーたいで、固まっていたらねらわれる! おねえちゃん、お母さん!」
 事態を飲み込めない戸惑いの表情でサクヤとクシナダは、ヒコに呼ばれるまま顔を上げる。ヒコは空いている方の腕で大蛇の居る方角を指し示した。
 「ひとごみをぬけるまで、むこうに進むけどいい?」
 数秒、顔を見合わせたサクヤとクシナダは頷きあい、決心した様子でヒコに向き直る。
 「そうね、じっとしているよりはいいのかもね。父さんもあっちにいるだろうし」
 ユーナには分かる。サクヤの手のひらが汗ばみ、小刻みに震えている事を。明らかな恐れ、しかし猶母と姉はヒコの提案を受け入れ、何時死ぬとも知れない戦火の中へ飛び込もうと覚悟した。
 目の前でヒコ達四人が嬲られる様を想像して、ユーナは体の芯を凍らせる。
 動けない。今動いてしまう事で最悪の事態を招いてしまう、と考えるとユーナの足が地面に根を張ったかのように重くなり、一歩すら踏み出せなくなった。
 ヒコがユーナの手を引く。
 「ユウ! 何してんのはやくっ!」
 「か、から・・・! 身体が言う事聞かないんだよ! あし、が! 動かなッ・・・脚が!」
 転倒を避ける為ヒコはユーナを無理に引っ張れない。ましてやユーナに施術してもらい状態を維持しているのに、術者の集中を妨げる事はできなかった。
 「ユーナ、落ち着いて。ゆっくり、少しずつでも前に」
 サクヤがユーナを落ち着かせようと声をかけるが、ユーナは歯を食いしばったまま呼吸荒く動悸を乱す。
 「ユウ・・・」
 ヒコは今まで見たことの無いユーナの表情に戸惑う。これまで機転を利かせて事態を乗り越えてきたユーナから零れる弱音は、彼が天高い壁を乗り越えられないヒコと同じ位置に居る事を示した。
 涙を浮かべるユーナの瞳は、及び腰ながらも巨大な龍を目指しており、決して完全に戦意喪失している訳ではなかった。
 「僕は・・・ッ!」
 不確かな呼吸の中、ユーナは声を絞り出す。
 遠くの大蛇が八頭揃って首を構え、辺りに練成した魔力の洪水を取り込み魔法を生成し始めた。
 ユーナは畏れていた事態が迫っているのに気が付く。
 八頭全てがラティアと同格、若しくはそれ以上の魔力を練り、呪を紡ぐために顎門を大きく開いた。
 「あああああ!」
 ユーナは恐怖も忘れて、ヒコを引き戻し前に出る。
 「身を! 屈めろ!!」
 ユーナの必死の形相に危機を感じたヒコは、サクヤとクシナダを庇うように地面にしゃがみ込む。
 「「「メラゾーマ」」」
 祭儀場に轟く詠唱に続いて規格外の灼熱の火炎球が打ち出される。
 一撃ですら山を削り取ってしまう程の大魔法が合計にして八つ。人の群れに向かい牙を剥く。
 眩い閃光を残して八つの流星は大地に突き刺さる。
 悲鳴すら掻き消す轟音、岩さえ蒸発させる程の熱量、視界が炎一色に染まりやがて晴れていく。
 幸いにもユーナとヒコ達は直撃を免れた。
 ユーナは己の持てる限界のフバーハで熱波を和らげ、ヒコ達に傷ひとつ無く守り抜いたが、代わりに魔力の大半を失った。
 急激な魔力の消費でユーナの意識が朦朧とする。ユーナは残りの魔力で自身を回復させ、正気を取り戻す。
 しかし、そこに広がっていたのは地獄絵図だった。
 メラゾーマが着弾したと思われる付近は人の跡形すらなく、その周囲では残炎や熱波に溶かされたであろう人型が倒れている。
 数え切れない程の死がそこにあった。
 想像した通りの未来に現在が追いついた事にユーナは愕然とし俯く。
 ユーナは足元に何かが落ちているのに気が付き、それを拾い上げる。見覚えのあるそれは、数日前知り合ったばかりの子供達の中の一人、ヒナの櫛だった。
 ジパングで右も左も分からなかったユーナに懐いてくれたヒナの小さな手のひら、温度を思い出しユーナは胸が張り裂けそうになる。咽の奥が渇いて鼻頭が締め付けられる。
 ヒナの笑顔を思い出し、ユーナは堪えていた想いを爆発させる。
 「ユウ! ちょっと! どこ行くの!?」
 ユーナはヒコの呼びかけにも応じず無意識にてピオリム、スカラを自身に施し、悠然と山のように聳える大蛇に向かって疾走する。魔力が底をつくのも気にせず、我を失ったユーナは策も力も無く、ただただ突貫する。
 術士の隊列をすり抜け、イオで地を蹴って飛び上がり兵士達の頭上を越え、バギで着地の衝撃を緩和させる。
 降り立ったのは八岐大蛇の真正面。数本の首が闖入してきたユーナを睨む。
 「おおおおお!」
 ユーナは吼える。己が内に残る全ての魔力を練成し、幾度と無く訓練してきた魔法生成工程を一瞬で終わらせる。
 下級閃熱魔法ギラ。
 全ての魔力を賭して放った魔法は八本の熱線となり夜空を駆ける。それぞれが一頭ずつに方向を決め、ユーナの眼球が目まぐるしく稼動範囲内を動き回る。
 三つは表皮に弾かれ、二つは気合にて霧散し、二つは避けられてしまった。
 だが、ユーナの狙いは残る一本。前の七本は全て囮、七つの首の動きを防ぐ為の手段でしかない。
 咆哮で掻き消そうとした大蛇の目の前で熱線が急角度にて曲がる。縦横無尽に、追跡する暇さえ与えずにその距離を次第に詰めていく。
 大蛇が炎を吐こうと大きく息を吸い込んだ、その隙。ユーナは熱線を急加速させ大蛇の口内へと突き刺す。
 業。
 痛みに悶絶した大蛇が顎を上げ、陰る空に燃え盛る火炎を吐き散らす。
 暫らくのた打ち回った後、自己再生を果たした大蛇は八つ首揃ってユーナに標的を絞る。
 ユーナは動けない。
 恐怖ではなく、魔力の枯渇による衰弱。ふらふらと身体を揺らし、ユーナは思わずに地に膝をついた。
 「ユノ!!」
 遠くからラティアの声を確かめたユーナは空を見上げ、自分を八つ裂きにせんと強襲する八岐大蛇を眺めている。意識は遠く、視界は霞んで事態の判断がついていない。
 大蛇の顎門が大地ごと削り取る。
 噛み砕かれた岩盤が降り注ぎ、怒りを抑えきれない大蛇の雄叫びが甲高く兵士達の鼓膜を揺るがした。
 ヤマトが盛大な土煙を上げて地を滑る。
 脇にはユーナを抱え、間一髪だったと一呼吸、安堵する。
 「はあ! いや、危なかった! 下手をすりゃ俺まで喰らわれていたわ」
 冷や汗を拭い、ヤマトがユーナを近場の術士隊に預けると、数秒送れてラティアが馳せ参じた。
 ラティアは治療班に介護されるユーナを認め、肩で息をしていた肺を抑えつけ、大きく息を吸い込むとそれを全て溜め息に変えて吐き出した。
 酸欠気味の頭をラティアは片手で覆う。
 「まったく・・・もう・・・馬鹿ユノ」
 「忘我とはいえ中々の童じゃのう。おかげでアレの弱点がひとつ垣間見えた」
 ラティアは体勢を整え、草薙の剣を強く握るヤマトに向き直る。
 「けど、どうすんの? 口の中に飛び込むなんてふざけた状況じゃないわよ」
 「そこが肝心要にて難解。刀では直ぐに治されてしまうからのう。一気でクチナワを駆逐する方法は、はて如何するか」
 術士では長期の接近戦に耐えられない、とラティアは口の端を締める。
 人垣を越えて向こう側ではオグナを筆頭に兵士達が大蛇の攻撃を凌いでいる。だが、再生能力を有する大蛇には攻撃という攻撃が蓄積されずに、じわりじわりと屍が積み重なっていくだけであった。
 無い頭を悩ませていたヤマトは痺れを切らす。
 「何もせんと頭使うのでは割に合わん。考えるだけなら火中にてもできる」
 「ちょっと待って!」
 草薙を肩に担ぎ大蛇の元に向かおうとしていたヤマトをラティアは急ぎ呼び止める。
 「ひとつだけ、『それ』ならできるかもしれない・・・」
 ラティアはヤマトの肩に掛かる草薙の剣を指差す。ヤマトは不思議そうに草薙を目の前で掲げ、ラティアに見せる。
 「これか?」
 「そう、現状で大蛇を斬り付けることができるのはアンタの技量で扱うその剣だけ」
 「まぁオグナの奴にもできんことはないが」
 「アイツじゃ三回に一回の割合でしょうが。それで、必要なのがもうひとつ」
 ラティアは握り拳から親指を立て、自身に差し向ける。
 「剣じゃ一部分しか攻撃できない。だからアンタがクサナギで大蛇を刺し、私がそこから魔法を流し込む」
 ラティアの言葉を考え纏め、ヤマトは首を捻った。
 「しかし、それだと俺と勇者殿が常に共に動いてなけりゃいかん事になるが? それに俺が刺してからではクチナワの奴が隙を許さんだろう」
 ヤマトは俊敏な動きで暴れまわる大蛇を見遣り、ラティアに向き直る。
 「おぬし、アレについて来られる自信はお有りか?」
 ラティアは口の端を引き攣らせたまま、鋭い眼差しでヤマトを見返す。
 「それをどうにかしなきゃいけないのがこの状況でしょうが。なまっちょろい事言ってるんじゃないわよ、私を誰だと思ってるの?」
 瞼を閉じてラティアは苦笑する。己の内の恐怖と向かい合い、共闘する事で意志を更に固める作業を、幾度と無く繰り返してきた覚悟を決める。
 「行くわよ」
 台詞とともに翻された外套が戦闘再開の合図を告げる。ヤマトはこれ以上口を挟む必要は無い、と草薙の剣を構え直した。
 「ユウ!」「ユーナ!」
 一歩踏み出したラティアの背後で、ヒコとサクヤが昏倒しているユーナの下に辿り着いた。
 足を止め背中を見せたままのラティアに、ヒコは顔を上げ視線を投げかける。
 ラティアは軽く横顔を見せる。
 「少しの間、ユノの事頼んだわよ。ヒコ」
 「あたしもいっ・・・!」
 ヒコはそれ以上に言葉を紡げなかった。ラティアの横目が、今から八岐大蛇と闘うにあたり役立たずを庇っている暇など一瞬たりとも無い事を語っていた。
 決してついて来るな、と視覚化させた魔力で念を押すラティアは、ヤマトと共にピオリムで強化された脚力を以って大蛇の下へと駆けて行った。
 ヒコは唇を噛み締めて大蛇を見上げる。泣き出しそうになる涙腺を抑えつけて、当てつけるように闘氣を滾らせる。
 (それでも)
 それでも猶、如何様に奮起した所で手も足も出ない存在が遠くに聳える。
 恐れは無く、立ち向かう気概を備えたヒコに足りないもの、それは力と技。今この瞬きで会得できる筈の無いもの。強く握られた拳から血が滴り落ちる。
 この怒りだけで大蛇を呪い殺せたら、どんなに事は簡単だったのだろう、とヒコは血走らん限りに目に力を込め怨敵を睥睨する。
 力を持つか持たざるか、たった二つの択一で奪い奪われる現実をヒコは憎んだ。
 サクヤがヒコの手を取る。
 両手で、己が爪で肉を切ったヒコの手の平を優しく包み、訴えるように視線を合わせる。
 「だっ、駄目・・・ヒコ、ここにいて」
 「おねえちゃん・・・」
 姉の敵である大蛇を目の前にして、サクヤに引き止められヒコは混乱する。どの行動を採れば良いのか思考が追いつかずにサクヤの手を握ったまま、その場にへたり込んだ。
 嘆いているばかりでは何も変わらない、それは痛いほどヒコは理解している。
 立ち止まっているだけでは何処にも進めない、だからこそヒコはジパングを出て茫洋とした世界へ飛び出した。
 祈りは行動を共にした者でしか天上に届かせる事ができない、ヒコは修練を欠かした日が無いのを思い出し確認する。
 しかし目の前に聳えるのは、現状で越える事の叶わない巨峰。
 ヒコは祈る事しかできない己を恨む、強くなる為の筋道を厳密に模索してこなかった己に呆れ、この単なる思考でしかない祈りにも及ばない行為を止めた。
 「ラティアさん・・・」
 サクヤと身体を寄せ合い、ヒコは前方で繰り広げられる戦争をただ眺めることしかできない。
 何も成す事も無く、ただ時と事態の流れるままに。
 幼き無力な武闘家は振るうべき拳を失い、一人の村娘として火の粉降りかかる舞台袖にて、傍観者に還った。

 

 暖かい光が瞼の外側から射してくるのに気が付いて、ユーナは意識を取り戻した。
 おそらく施されているであろう法術はホイミであろう、と魔法の感触を確かめながらユーナはゆっくりと目を開く。
 「気がついた? まだ安全かどうかわからないから安静にしておいてね」
 ジパングの術士の女はそう言って、ユーナの死角へと手招きをして誰かを呼び寄せる。
 ユーナはこれ以上世話になる訳にはいかない、と無理矢理身体を起こそうとするが、すぐに止められ背中から誰かに抱きとめられた。
 満足に稼動しない身体はそれが誰なのか確認する術を持たない。
 ユーナの鼻腔を僅かな香りがくすぐる。
 「それじゃあ、安全なところまで逃げててね。五人とも」
 そこでユーナは思い出す。自分が我を忘れて八岐大蛇に突貫していった事を、命を投げ捨てる行動を採った事を。
 その直前まで共に行動していた人達の事を。
 「ユーナっ・・・!

 「サクヤ・・・?」
 ユーナは確信する。首を動かすのも億劫なこの状況で己の身体を支えてくれているのが、サクヤだと。
 そして目の前には、不安と怒りで泣きそうな顔になっているヒコが立ちはだかっている。
 「っ・・・ユウは! ランシールの時もそうだったけど! っほんとーにばかっ! あたし以上に! あたしよりももっとっ!」
 「自覚してたのかよ・・・お前」
 消え入りそうな声で応えたユーナを、背後のサクヤが強く肩を掴む。
 「そんな、憎まれ口叩いている場合じゃないでしょ・・・もう」
 豪。
 謝ろうと口を開いたユーナを、大爆発の余波が遮る。
 風圧が砂埃を巻き上げて空に還る。魔力の質から、ユーナは今のはラティアの放った魔法だと感知する。
 ユーナが視線だけで戦場を覗き見ると、纏めて弾き飛ばされた二頭の大蛇が、仰け反り体制を整えている所であった。
 だが大蛇は仰け反っただけで致命傷を負った様子も無く、再びラティアや兵士達に向かって襲い掛かっていく。
 矢面に立つラティアの側には草薙を振りかぶるヤマトが居るが、認識の無いユーナは彼がおそらく腕の立つ兵士だろう程度にしか理解できなかった。
 ヤマトが剣の腹で受け止めた大蛇の鼻頭を、強化された力任せに押し返す。反動で後方に飛ばされたヤマトは反転し身体を縦回転させ、他所に気を取られていた一頭の咽笛を掻っ切る。
 血飛沫と共に咆哮。眼を血走らせた大蛇は回復させた喉に灼熱を蓄え、ヤマトの剣閃届かぬ広範囲を薙ぎ払うようにして炎を吐き出した。
 岩さえ溶かす火炎を重ね掛けされたフバーハが勢いを殺ぎ、兵士列の後方から氷撃魔法の矢が嵐のように大蛇に向かう。
 言葉届かぬ轟音の中でヤマトがラティアに視線を送ると、ラティアは杖で八岐大蛇の首根元を指し示した。
 合図を送る前にラティアはそこへ目掛けてイオナズンを放つ。
 大地が捲り上がり勢いをつけた礫が八首を傷付けるが、瞬時に回復してしまう大蛇には幾らの衝撃にもならない。
 大蛇が八頭揃い雄叫びを上げる。耳を閉じてさえ突き抜けてくる振動に一同は怯み、敵に数瞬の隙を与えてしまった。
 大地が揺るぎ、ラティアが吹き飛ばした地層から何かがせりあがって来た。
 それは首根元に続く八岐大蛇の胴体。長大な八つ首を支える巨体が地層を持ち上げて地上に顕現しようとしている。
 巨大な右前足がその爪で地面を掴み、振動が兵士達の足元を攫う。
 ユーナ達も例外ではなく、サクヤやタケと身体を寄せ合い転倒を免れた。大蛇の足元で腰を抜かした数名は地をこそぎながら自重を移動させる巨体に押し潰されてしまった。
 「今の内にいいいい!」
 刀を構えたオグナが、地に出ようと踏ん張る右足を狙って突撃していく。後方支援の身体強化魔法がオグナの一撃を何倍にも高め、気合を込めた剣が横薙ぎに振られる。
 オグナ自身も確信した会心の一撃。
 だが、それは粉々に砕け散った刀によって失敗を告げられた。驚いたオグナは気持ちを切り替え、大蛇の皮膚を足場に、武器を替えるために陣営へと後退する。
 屠。
 オグナが斬り付けた八岐大蛇の体表から黒い霧のようなものが立ち昇る。不規則に燻る炎の様に、完全ではない様子で、逆にそれが兵の恐怖を煽った。
 ラティアは悟る。八岐大蛇を倒すには今が好機だと。
 (違う、今しか無い! 今を逃せば! 後は無い!)
 闇の衣を十分に展開させてしまえば、人間に勝ち目はない、と。
 大蛇の後ろ足が地を踏みしめ、全身が姿を現した。その巨躯、人々が歌いし伝承には及ばずとも山ひとつは優にある。そこから伸びる首を展開すれば天を覆わんばかりの、正に魔王と呼ぶに相応しい迫力で、存在を明らかにするだけで恐怖を与える存在となる。
 士気がじわりじわりと下がっていく。
 如何様に攻撃しようが疲れさえ見せない八岐大蛇に対しての絶望が、次第に伝染していく。
 先程まで騒然としていた戦場の消沈の中、ラティアが叫ぶ。
 「ヤマトおおお! ついて来いやあああ!」
 戦意を喪失していない戦士が一人、ラティアの合図を聞き逃さずに、魔法使いの指し示す方へ向かい疾駆する。
 大蛇の首が二人に向かい強襲、地に刺さる首を躱しながらラティアとヤマトは合流し、同時に宙へと跳躍する。
 先行するはヤマト、辺りに有らん限りの魔力を練成したラティアが魔法を生成しつつ続く。
 「援護しろおおおお!」
 術士隊を指揮するアタエが檄を飛ばし、それに応ずる事のできた数十名がヤマトを何重にも強化した。
 剣先を大蛇に、草薙の剣を腰に溜めたヤマトは額に青筋を浮かべて氣を練る。
 「おおおおおおおおおおおおオオオ!」
 噛み締めすぎた口の端から血を滴らせ、ヤマトはジパングの民の祈りを込めた一刀を大蛇の胴体、その中央に突き立てた。
 ずぶり、とめり込んでいく刀身が半ば程埋まったのを確認したヤマトは手を離し、後は言霊を紡ぐだけのラティアに草薙の柄を託した。
 ラティアは渾身の一撃を蓄えて、手を伸ばす。

 拒。
 
 今、草薙の剣を掴もうとしたラティアの目の前で、刀身が真っ二つに折れた。
 八岐大蛇から伸びる漆黒の闇の衣が刀を絡め、小枝を折るように破壊した。ラティアは顔を歪め、それでも生成した魔法を解き放った。
 一縷の望みに掛けて、最上級爆発魔法が放たれる。
 大蛇の胴に突き刺さる草薙の片割れに目掛けて、大爆発が巻き起こる。炎熱と爆風、轟音と衝撃波が一体を支配した。
 これ以上闘いを長引かせるのは無理だ、と考えるヤマトは爆発に巻き込まれないよう大蛇から距離を取った。
 新しい大刀を掴み構えていたオグナも同様に、士気では無く兵達の体力の消耗を危惧した。
 アタエは次第に数を減らしつつある術士隊を案じつつ、魔力の使いすぎによる頭痛に顔を覆った。
 ラティアは無我夢中だった。目の前の怪物を倒す為に身体は動き、ここで死ぬわけにはいかない、という執念だけが彼女を突き動かしていた。
 ユーナはサクヤに支えられ目の前で繰り広げられた超常の闘いを見逃すまい、と見張っていた。いつか辿り着かねばならない場所を記憶に焼き付けて、爆発音の最中ユーナは低く唸った。
 傷ついた兵達はラティアの大魔法に希望を託し、武器を持つ手を下げた。これならば、この魔法の威力ならば大蛇は息吹いてはいまい、と僅かに安堵した。
 そこに居る、誰もが戦いの終わりを祈った。


 そして、立ち込める煙幕の中から、


 
八岐大蛇の咆哮が轟いた。

 

 

 

 






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