7 - 4

 

 粉塵と煙が薄くなり始めた頃、ジパングの兵士達は雨が降り出した事に気が付く。
 空から落ちてくる水滴は、しかし奇妙な温度を持ち、辺りに異臭を漂わせる。
 誰かが悲鳴を上げた。
 兵士の一人ははっきりとしない視界の中、確認出来得る己の身体を見て声を詰まらせる。
 衣服が、赤く、降り止まぬ血の雨によって染められていた。
 血液と認識してしまった雨を口内に取り込んだ者が、嫌悪感から胃の内容物ごと地面に吐き散らしてしまう。
 血雨は辺りの砂埃を大地に還し、やがて爆煙も血溜まりに融けて晴れていった。
 
 そこには、体躯を半壊させた八岐大蛇が蠢いていた。

 文字通り、臓物を曝け出し蠢いている様に、耐えられなくなった者達が血に膝をつく。
 骨身が飛び出し、血液が勢い良く中空に噴出している。八頭在った首は四本を失い、残る四つも激痛に身悶えしている。
 大蛇の体表からは絶えず煙が立ち昇り、じわじわと確実にその致命傷を回復させている。
 胴に突き刺さった草薙の剣の刀身はそのままに、その向こう側が大魔法により損壊していた。
 醜悪な惨状に呆然としていたアタエは、はっと正気を取り戻し事態を理解する。
 外部からの魔法が通じた事がひとつ目。
 二つ目は、それを有効に足らしめている草薙の片割れが大蛇の躯に残っているという事。
 血を滴らせた体も気にせず、アタエは叫ぶ。
 「術士隊! 傾注! 傾注ゥ!! これより遅延魔法を一斉放射する! 繰り返す! これより遅延魔法を一斉放射する!! 各自、魔力の練成を急げ! 事は一刻を争う! 速やかに実行すべし!!」
 イオラの爆音で耳を傾けさせたアタエの言葉に、ジパングの宮廷魔術師達は目的を察し、魔力を残していた術士達はありったけの魔力を練成し待機する。
 「魔力の少ない者は休め! 決して無理をするな!! 次に備えよ! 第一陣の効果が切れ次第、第二射に移る!! 可能な限り魔力を回復させろ!!」
 喉が切れんばかりに叫び、アタエは自らも余力を残しながらも魔法を生成する。
 振りかざした右手を前に倒し、喉が枯れるのも気にせずアタエは大声を振り絞る。
 「目標! 草薙の神剣! 撃てえええええええ!!」
 広範囲より放たれた遅延魔法ボミオスが草薙の刀身目掛けて収束していく。
 鮮やかな光の束が八岐大蛇を包み、急速な再生を遅らせる事に成功する。だが、遅らせただけであって停止させたことにはならない。それをアタエも理解している。
 今、この戦争に必要なのは態勢の立て直し。
 ふらつき転びそうになったアタエの身体をヤマトが受け止める。その後ろにはオグナが続き、遅れてラティアがヒコの父ミコトに肩を貸されながらやってきた。
 「よくやった。賢明な判断じゃ、アタエ」
 「出来る事をしたまでです。それよりも、今は」
 「わかっておる。策を練らねばいかんのだろう?」
 能天気な台詞とは裏腹にヤマトの表情は固い。行き詰った様子を隠そうともせずに奥歯を軋ませる。
 ヤマトはラティアを見遣る。
 「そうほいほいと全力なんて出せないわよ。・・・少なくとも四半日は休まないと」
 ラティアは頭痛に顔を引き攣らせながら瞳を伏せる。
 次に視線を注がれたアタエも表情に影を落とし、重々しく首を横に振った。
 「今このジパングに、勇者様と同格の術士は居ません。仮に多勢にて火力を集中したところで、直接的に威力の発揮される至近距離にて事を運ぶのは・・・・・・無理です」
 アタエは八岐大蛇を見遣り、その体躯から闇の衣が数刻前よりも、僅かに早い感覚で噴出しているのを確かめる。
 一同は彼女の視線が何を意味しているのかを理解した。
 「確認するぞ」
 ヤマトが手を翳し、話を進める。
 「この時点にてくちなわを滅する為に肝要な物。有るか?」
 「高出力の大魔法」
 ラティアがすかさず応えると、ヤマトは拳を握り人差し指を立てた。
 「それは勇者殿が回復すれば大丈夫なのだろう? だが刻が必要になる。して、その時間稼ぎは術士隊が行っておるが、アタエ、それまでにもつのか?」
 「四半日・・・もたせてみせます。それには術士隊を全招集せねばなりません。民の保護と誘導は衛士達でやって貰えませんか」
 「オグナ」「承知!」ヤマトが呼ぶなり、オグナは各隊の隊長を呼び寄せ行動を指示し始める。
 「さて・・・残るは」
 オグナを除いた一同は向き直り、ヤマトは二つ目の中指を立てた。
 「草薙の剣に代わる武器」
 「先に言っておくけど、その辺に転がっているようなナマクラじゃ私の魔法に耐え切れないからね」
 「しかし、草薙は神器とも呼べるような業物。人の手の物があれに勝るのですか?」
 アタエの発言に一同は言葉を詰まらせる。ラティアは答えが出るのを待ち、ヤマトは黙しながらも魔法使いの傍らに居る人物に向かって視線を投げかけていた。
 ラティアの耳元で、意を決するような深い溜め息が聞こえた。
 「俺が打つ」
 ジパングの刀鍛冶、ミコトが口を開いた。
 「打てるのか?」
 ヤマトは厳しい目でミコトを見据える。
 「打つ。元よりお前もそのつもりだったのだろう?」
 「なに、言葉にせねば確固足り得ぬ事もあるわ。長い付き合いとは云え、この状況ではな」
 ヤマトは荒れ果てた祭儀場を見渡す。
 一面は焼け野原、地は陥没隆起し、数え切れぬ死体が転がっている。凄惨の一言では片付けようの無い事態は、しかし今だ終息を迎えてはいないのである。
 「して、刀を打つにあたり、少し注文をさせて貰うぞ」
 「何が足りない」
 「時間の余裕はある。鍛錬を済ませた鋼が有るので、すぐにでも次の工程に移る事ができる。だが、魔剣の製作には傍らに術士が要る。俺は魔力を扱えんので助手を、なるべく高魔力を有し、魔術を精密に操れる者を寄越してくれ」
 「操作の程度はどのくらい?」
 ラティアが問う。ミコトは間髪入れずに答える。
 「針の穴に糸を通す作業を長時間続ける精神の有る者」
 ヤマトとアタエが押し黙る。術士隊を率いるアタエでさえ、今の注文を二つ返事で了解できるほど魔法操作に自信を持っているわけではない。
 ヤマトが僅かに非難を表すと、ミコトは渋い表情で返した。
 「最良の物を造るにあたっての条件だ。駄目元で聞いただけだ、気にするな。人選はお前に任せる、俺は火床を暖めておくので早めに頼むぞ」
 ラティアを一般の兵士に預け、ミコトは村落の方へ足を踏み出した。
 「待って」
 ラティアに呼び止められ、ミコトは立ち止まり振り返る。何かあるのか、と不審を表すミコトにラティアは真剣な面持ちで応える。
 「良い人材、いるわよ?」

 

 

 ユーナは八岐大蛇の醜態をサクヤに見せまいと、彼女を抱きながら魔獣を眺めていた。
 鼻につく臓腑の、煙の、戦場の臭い。
 噛み締めた唇から血が滴る。ユーナは遣り切れない想いと頭痛に顔を歪ませる。
 (これが、これが戦場! 僕は、付け上がっていた僕はっ・・・! 何一つ満足にできやしない!!)
 ユーナは叫びだしたい衝動を、腕の中にいるサクヤを確かめる事で抑えつけた。
 ラティアがサマンオサに向かわなかった理由の一端を実感し、ユーナは己の力不足を痛いほど噛み締める。
 想いの大小は有れ、それは奇しくも在りし日のアルス達が抱いた想いと同じであった。
 乾坤一擲の魔法は大海に投石したかの如く、傷のひとつにも成らなかった事がユーナの自尊心を根底から打ち砕いた。
 それがユーナ自身の預かり知らぬ所で波紋を呼んでいるとしても、今のユーナには不甲斐無い自分を責め続ける事しかできない。
 「ユーナ・・・」
 サクヤはユーナの心中を察して、それ以上何も言えなくなる。
 ただ、今は自分がユーナを支えてやらねば、と未熟な魔法使いを優しく抱き返した。
 ざっ、と彼らの背後で誰かが足を止めた。ユーナは反射的に振り返る。
 「・・・キミがユーナ君? そう、キミが」
 そこには戦に汚れたアタエが居た。アタエは赤褐色に染まった法衣を引き摺りユーナに近づく。
 「アタエ? どうしたの」
 答える代わりにサクヤの頭を撫で、アタエはユーナに向き直る。
 「魔法使いラティアからの推薦でキミを探していたのよ。ユーナ君、どうか、ジパングの為にキミのその力を貸して欲しい」
 「ラティアが・・・?」
 「詳しい事は道中話すわ。今は一刻を争うの」
 切羽詰った様子のアタエに、ユーナは少し戸惑う。瓦解した筈の自尊心は、頼られているという事態を素直に受け止める事ができない。
 (僕が? 僕に? 何を、力なんてどこにも、無いのに、理解できない。しようとしていない? 本当は? いや、それは、ない・・・のか、もう、分からない。だって、通用しなか・・・ったじゃない、か、僕の魔法は、小手先だけで、傷ひとつ、つけられ・・・・・・ずに、虫を掃うように。今更、イマサラだろ、そんな、チカラ、どこにも無い事くらい、一番、僕が・・・!)
 事態を把握できずに迷走するユーナは、腕の中のサクヤの姿を認める。
 (サク・・ヤ、そう、なんでだろう、胸が痛い。サクヤが・・・んでしまったらと考えるだけ、で、それだけで胸が、痛くて、どうしようもなくなるのは。分からない、こんな想い、知らなかった、初めてで、なんとなく、なんとなく予感はしているけれど、確信してしまえば・・・僕は、もしもの・・・時)
 ユーナはサクヤを強く抱きしめる。自分の身体とはまるで違う、華奢でふくよかな女のそれに、ユーナは性差を感じた。
 伝わる体温につられて湧き上がってくる感情は止め処無く、このまま時間が止まってしまえばどんなに良いのだろう、とユーナは戦場の熱を肌で感じながら歯を食いしばる。
 サクヤは戸惑うユーナに抱きしめられるまま、彼の答えが出るのを待つ。
 この状態がユーナの心を保っているのならば、と震える身体を大きな赤子を抱えるように包み込んだ。
 (・・・・・・守れば、良いんだよ、分かってるよ、それくらい分かってるよ! だけど、力が、無いだろう! 僕には、あの化け物を倒すだけの、十分な、強い力が・・・ないだろう? でも、それは、あそこにいたあの人だって分かって・・・・・・いて、それでも、僕が、必要なのか僕が?)
 焦りは感じさせながらもユーナの返事を待つアタエは、術者の精神状態が魔法に多大な影響を及ぼす事を了解している。不安定な術者に、ましてや、危険なラティアの提案を実行に移すわけにはいかなかった。
 「・・・サクヤ」
 「ん」
 ユーナが少し身体を離して顔を上げると、サクヤは返事を短く、応える。
 「僕は、ぼ、くは、臆病なんだ、僕を必要としている、人が、いるのに、自分が、自分が、僕の力が信じられなくて、頭の中がこんがらかって、確かじゃなくって! 前に踏み出せな、い・・・だから、一言だけで、いいから、サクヤが・・・サクヤの言葉が、欲しい。・・・僕が僕を信じられるように、かっこ悪いけど、情けないけど、迷惑だろうけ・・・!?」
 ユーナの唇をサクヤのひとさし指が塞ぐ。僅かの一瞬で、サクヤはすぐに離れて、ユーナを真っ直ぐに見詰める。
 「自分を嫌いにならないでユーナ。私の言葉で良いのなら幾らでもあげるから、私はユーナが自分を責めているのを見るのが悲しいから。だから・・・」
 サクヤはユーナの手を取り、両の手で包み、固く握り締めた。
 「あなたの出来る事をしなさい、ユーナ。戦う事だけが強さじゃないよ、それを補う人がいて、支える人がいて皆が闘っていられる。今、ユーナに戦う力が無いのなら、それでもユーナを必要としてくれる人がいるのなら、その人の為にユーナ自身が、ユーナ自身の闘いを・・・自分を信じて、ユーナ!」
 ユーナの震えが止まった。
 一言、たった一言でユーナの恐れは消えた。体温伝わる手から感じ取ったサクヤは表情を明るくする。
 (ああ・・・)
 ユーナは確信に至る。
 自分が、目の前で勇気をくれたサクヤに好意を抱いているという事に。気づいてしまったからには、失うわけにはいかなくなった、とユーナは心を奮い立たせる。
 ユーナはアタエに顔を向けた。覚悟を表情に乗せ、アタエはそれを見て安堵する。
 唯一残された自分のすべき事、大事な人を守らなければという想いが衝動となり、ユーナの口を動かした。
 (・・・僕に)
 「僕に、出来る事が在るのなら」
 (こんな、小さな僕に)
 「この力、存分に使って下さい」
 ユーナの確かな意志が言葉となり、枯れかけていた勇気を呼び覚ます。
 サクヤはユーナの瞳に火が灯るのを感じて、微笑み、そっと彼の身体から離れた。これから先は手を差し伸べるべきではない、とサクヤは軽く彼の背中を押した。
 無言で、少し俯いたまま、先に進めと促すように。
 僅かな時間しか共にしてない筈のユーナの背中は、暖かくて、そんな当たり前の事にサクヤは目頭が熱くなるのを感じた。
 生きている、という実感がとても愛おしい事に気が付いて、胸の奥が疼く。
 理由の知れない喪失感をユーナの手前で露にするわけにはいかない、とサクヤは深く深く呼吸をひとつした。
 「サクヤ?」
 少し様子のおかしいサクヤを心配して、ユーナが訊ねる。
 サクヤはそれに、微笑みで応えた。
 「なんでもないの、なんでもないから」
 近づくユーナから一歩後ろに距離を取り、くるりと背中を見せ、サクヤは顔だけ振り返る。

 「いってらっしゃい、ユーナ」

 「あ・・・あ、うん・・・」
 何か、言わなければとユーナは感じていた。
 ユーナはサクヤの瞳を見つめている。言葉が何一つ出てこずに、ただ時間だけが過ぎる。もどかしい気持ちがサクヤに手を伸ばしたが、サクヤは小さく首を振ってそれを拒んだ。
 「アタエ」
 「それじゃあ、借りてくわよ」
 まるで所有物を貸借していくかのようなアタエに、サクヤは少し頬を染めて反抗する。
 アタエに促されて、ユーナは歩き出す。
 炎燻る戦場を後にして、彼の成すべき事の為に歩を進める。
 (・・・っ!?)
 ユーナは胸騒ぎを覚えて、遠ざかっていくサクヤの姿を振り返り確認した。
 彼女はこちらをずっと眺めていた。手を振ったり声をかけるでもなく、ただじっとユーナを見送っている。
 使命感に促されるまま、ユーナは踵を返し進む。
 そして、道中、アタエに事の仔細を聞かされる中、その懸念も心の片隅へと追い遣られていった。

 

 

 ヒコの実家、ミコトの工房にてミコトとユーナ、それとジパング宮廷魔術師が数名輪になって向かい合っている。
 「しかし、実際に出来るのか?」
 ミコトが若干の不審を込めてユーナに訊ねる。ユーナは黙って頷く。
 ラティアがユーナを推した理由は二つ、ひとつは繊細な魔力の操作が可能である為。二つ目は相手の魔力、魔法を自身の魔力に変換する反撃魔法を有している為であった。魔剣製造に必要な強魔力が足りないユーナに、中上級魔術師の魔力を流し込む事で不足分を補えるのではないか、という算段である。
 「魔法を生成する前の魔力なら、実力差に関係なく取りこむことはできます・・・」
 ユーナが語尾を濁すと、術士の一人が心配そうにユーナを覗き込む。
 「しかし、足りない器に大量の魔力を流し込むというのは・・・心身共に危険が」
 「器とは魔術の鍛錬により、自然と積を増やしていくもの。それを無理矢理に広げるとなると、精神の方が壊れるやもしれぬぞ」
 「拙僧はあまり賛成しかねまする」
 ミコトはユーナを見遣る。ユーナは刀鍛冶の視線に応えた。
 「なら、まずひとり、誰か僕に練成した魔力を送ってみて下さい。実際にやってみせたのなら話は早いですから」
 「承知した、このままでは拉致が明かないからな。しかし、最初は流石に手加減するぞ」
 ユーナの言葉をいまいち信用できない術士の一人が歩み出て、大気中に魔力を練成する。ユーナはその術士の魔力から、アタエがメラ系の魔法に明るい人物を選んでくれた事を知る。
 ラティアの気遣いに、ユーナは緊張を緩める。
 「大丈夫です、来て下さい」
 ユーナが構えると、術士は恐る恐る魔力の流れをユーナに向かって解き放った。
 ユーナの練成するそれよりも格段も上質の魔力を、ユーナは身体を張って受け止める。
 生成された魔法やエネルギーを魔力に変換し、同属性魔法にして放つ反撃魔法を応用して直接魔力を取り込もうとするが、今まで扱わなかった、ダメージとして受けてた余剰魔力を物理的に無害とはいえ吸収しようとした身体が精神の影響を受けて過剰に反応する。
 ガクガクと痙攣するユーナに、皆一同不安を露にした。それを横目にユーナは気合一閃、魔力吸収を強行し、自身に取り込んだ。
 「メラ」
 呪文を唱えたユーナの指先に、彼の通常ならざる炎が姿を現す。更にユーナはその形を変え、炎で作った小鳥を鍛冶場の中で旋回させる。
 「これなら、問題ないでしょう?」
 術士達は信じられない物を見たかのような顔でユーナを凝視している。ミコトはユーナの顔色を窺いつつ、槌を構える。
 「今のは手加減程度なのだろう。もう少し強い術を練ってもらうが、大丈夫なのか、途中で倒れたりしないと確約できるなら作業を始めるが?」
 ユーナはその問いに惑わなかった。恐れはあるものの、それ以上の使命感を瞳に映してミコトを正面に捉える。
 「構いません。すぐにでも取り掛かりましょう」
 明朗に放ったユーナの言葉が、その場の空気を断ち切る。目の前の幼い術士に二言は無い、と悟った術士達も覚悟を決め、己の持てる魔力を上質な物にせんと神経を研ぎ澄まし始めた。
 「ならば、そこに座り俺と弟子が鋼を延べる間、刀身に向かい常に一定に魔力を注げ。槌の音や火花に怯んで魔力を途切れさせると刀の質が落ちるから、そこだけに気を付けろ」
 小槌を片手にミコトは自分の定位置に就く。ミコトの弟子と思わしき若者二名がその両脇に大槌を携え構える。ユーナは金床を挟んでミコトの対面、術士達はその後方で練り終わった魔力を待機させている。
 「よし、そいつに魔力を注げ」
 ミコトの合図を皮切りに、術士の一人が高密度に練った魔力をユーナの背に向かい放つ。
 仁王立ちに構えたユーナの踵が全身の痙攣で床を打つ。ユーナは予め用意しておいた布を口に咬ませ、獣が吼えるように唸り相容れぬ筈の魔力を抑えつける。
 一際大きく身体を仰け反らせた後、ユーナは姿勢を正し、ミコトに視線で合図を送る。
 「・・・ならば、術士殿達は交代で途切れぬよう魔力を送り続けてくれ。小僧・・・いや、ユーナ、よろしく頼むぞ」
 ユーナに応える余裕は無かった。飽和状態の魔力に意志を乗せて、目の前の鋼に注ぐ、ただそれだけを考える。
 ミコトはそれを応じた、と受け止めて鍛えた鋼を火床に入れた。
 サクヤを護りたい、という意志を支えとして、赤熱した鋼を打ち弾く音にも飛び掛る火の粉にも怯まずに、ユーナは己の持てる技量を最大に魔力を注ぎ続けた。
 身体に響く槌の音だけが、ユーナに時が進んでいる事を知らせてくれる。
 布に水分を奪われた口内も気にする事なく、一心不乱にて魔力を取り込み、放つ作業に徹する。
 その気迫に、覚悟に、やがて誰もがユーナに心配や遠慮をする事はなくなった。
 火事場は魔剣を造る為の機工となり、廻り続ける。
 主が鋼を焼き、弟子が槌を振るい、魔術師が呪いを込め、主が修正し、再び鋼を赤熱させる。
 鋼が延びる。
 打たれ、注がれ、きたる刀としての己を目指すように、真っ直ぐにその形を顕にしていく。
 ミコトは今までに無い高揚を感じていた。
 魔術と鍛冶の才能を持ち、天才と謳われた兄とは反対に魔術の才も無く、鍛冶の腕も兄に及ばなかった自分が、完成を待たずして上等を見極められる程の刀を打っている事実に鉄面皮の頬が緩む。
 ある日を境に失踪した兄の超える事叶わぬ背中を追い続けてきたミコトにとっての、集大成がここに在ると言っても過言ではない。
 吟。
 延べが終わるのをミコトの一振りが告げた。
 「・・・整える。まだ気を抜くな」
 ミコトはユーナを盗み見、すぐに作業に取り掛かった。ユーナはミコトの言葉を聴いてはいない、ただ目の前に熱せられている赤鉄に己が魔力を注ぐ事だけに執心していた。
 弟子を周囲の小間使いに回らせ、ミコトは刀の整形に槌を振るう。
 刀身は直ぐ、諸刃にて長大。両手でないと振り回せないであろう大剣は、その身を水により急速に冷やされる事で心身を引き締める。
 次の工程に移る際、ミコトはユーナを窺わない。常に注がれている魔力が信頼の証であった。
 獣のような唸り声と刀身を削り研ぐ音が交互に、合いの手を打つように言葉交わされる。弟子を含め、休憩を取る術士達はその鬼気迫る情景に固唾を呑まずにはいられなかった。
 火床から漏れる熱は部屋を満たし、魔術師から発せられる魔力の粕が大気に彷徨う。鋼の削り後に魔力が被せられ、地金刃金共に染んでいく。
 弟子が用意した水桶を引き寄せたミコトは大剣の刃を精密に研ぎ澄まし始める。
 桶の中身は聖水、混じりの無い魔力水で覆い磨く事で刀は更にその神聖さを増す。
 どれだけ削れば終わりが来るのか誰もが判らなくなり始めた頃、ミコトは桶に掛けてあった手拭いを取り鉄粉と聖水に濡れた手を拭いた。
 「俺が造ったアレを持って来い」
 弟子二人は時間の感覚を取り戻し、事を理解すると一目散に火事場の隅へ向かい、重厚に括られた箱を持ち出してきた。
 縄を解くのも面倒だったミコトは側に置いてあった鉈を用い、箱を壊しかねない勢いでそれを断ち切る。
 その中から出て来たのは、通常の刀の二倍はあろうかという柄。
 まるで、予め何を作製するかを決めてあったかのように、造り上げた刀身に適応した刀柄であった。
 ミコトはそれを取り出すと鍔元の辺りに小さく穴を開け、そこに黄金色の小さな欠片を収め、取り外せないようにと深く打ち付けた。
 「ユーナ」
 柄に刀身を収め、目釘を打ったミコトは有らぬ方向を見据えながら肩で息をしているユーナを呼び寄せる。
 ユーナは眼球だけミコトへ向け、もう限界が近い事を知らせる。
 ミコトは完成間近の大剣を見せ、先程の鉱石が埋め込まれた箇所を指し示した。
 「ここにお前の連れから預かった魔力鋼を埋め込んである。ここに持てる魔力を注げ。」  
 ミコトが埋め込んだのは、ラティアが所持している光の玉の欠片のひとつ。魔力を扱う物を造るのなら、これ以上に価値の有る物は無い、と渡されたのであった。
 ユーナは緩慢な動きで背後に立つ術士三人に視線を送り、金床に置かれた大剣を前に膝をついた。
 「も、もしかしてお主、我ら三人で魔力を送れと申したのか・・・」
 ユーナは小さく頷く。それ以上は反応しなく、またできない。無謀さを鑑みて躊躇していた術士達であったが、微動だに刀の前から動かないユーナを見て、終には覚悟を決める。
 「まったく、大した奴じゃ」「敵わんわ・・・」
 術士達はユーナの背後に揃い、上質の三倍の魔力流を目の前の術士に流し込んだ。
 散々高魔力に晒されたユーナの身体は、当初のように痙攣する事無く、流石に扱いきれない魔力が身体から蒸気のように立ち昇っていく。
 ゆっくりとユーナは刀に向かい手を翳す。
 途切れそうになる意識の裏にサクヤを映して、ユーナは全ての想いと力を込めて光の玉へ魔力を込める。
 大剣は淡く発光し、やがて眩いほどの光を放ち鍛冶場を覆いつくした。
 目を覆い、暫らくして光が晴れ、景色を映せるようになると、皆は刀の側で倒れているユーナを発見した。
 ミコトは発光を止めた大剣を取り上げる。
 「ユーナを母屋へ、それと救護を呼べ」
 弟子を鍛冶場の外へ向かわせ、ミコトはその開いた戸の向こう側に白みかかった空を認める。
 時を知った身体に時間差で遣って来た疲れに、ミコトは思わず腰を下ろした。大剣を抱え、地に座るミコトの下へ丁度頃良くヤマトが訪ねてきた。
 「お前の弟子が勢い良く飛び出てきたものでな。もしやとして赴いたのだが」
 ヤマトはミコトの胸に認められる大剣を目に留め、その表情を明るくする。ミコトは苦笑しながら、鍛え上げられた大剣をヤマトに差し出す。
 「疲れて立てん。取りに来い」
 「お前程の者が随分だのう」
 ヤマトは歩み寄り、鞘も無い抜き身の大剣を刀鍛冶から受け取り正眼に構えてみせる。
 両の手で支えてもずしりと肩に重さが伝わるそれは、魔力知識の無いヤマトから見ても異彩を放っていた。
 長大で幅の広い刀身に、それを振り回せるよう拵えられた長柄。魔力が練りこまれた刃金は僅かに揺らすだけで、宙に仄かな赤い軌跡を残す。飾り気の無い無骨な見た目が、逆に神聖さを醸し出す。
 握り締めるだけで闘志が涌いてくる魔剣に、ヤマトは思わず声を漏らして笑った。
 「くはは、これはこれは、確かに生気を吸い取られんと打てぬ刀よ。して、ミコト、名はなんとする」
 「ああ・・・」
 疲労した身体で天井を仰ぎ、呼吸を三つほど過ごしたミコトは思いつくがままに口を開いた。
 「蛇を斬る刀」
 その場の皆が肩を落とした。ヤマトは豪快に笑い飛ばし、ふと閃いたようで顎に手をやった。
 「悪くないが、少し変えさせてもらうぞ。古い言葉で蛇とは『羽々』と言う、それを採り『羽々斬』というのは、どうだ?」
 「俺にはそういう趣が無いので何とも言えん。お前が好ければそれで良い」
 「がはは、承知した。ではしかと頂戴致す」
 ヤマトは魔剣・羽々斬を気に入った様子で、二振りほど重さを確かめると、剣の腹を肩に当て担いだ。
 ミコトはその背中に声をかける。
 「行くのか」
 「じきに夜が明ける。術士達の拘束も意味を成さぬ頃合よ、良い塩梅に刀も仕上がった」
 魔剣の氣に当てられたのか、ヤマトは鬼の如き形相で口の端を吊り上げ牙を剥いていた。単純にジパングの民を蹂躙した八岐大蛇への怒りがそうさせたのかもしれないが、その気迫に誰も戦士の心情を読み取ろうとはしなかった。
 鍛冶場の敷居を跨いだヤマトは、側近の近衛に視線を配る。

 「者共、再びの蛇狩りだ。用意をしろ」

 魔剣を担ぎ、戦闘体勢を整えた大将に兵達の士気が上がる。
 命令が各部に伝達されていく。疾風の如く、勝算を得た戦士達が闘志を漲らせて戦場へ進む。幾百の足音が夜明けを告げ、立ち込める氣が空の帳を押し上げる。
 誰かの雄叫びは群れに広がり、気づけば誰もが犬歯が見えんばかりに口蓋を開き吼えていた。
 まるで一体の獣と化した兵士達が山の麓に差し掛かる頃、ヤマトの下にラティア、アタエ、オグナの三名が合流する。
 ラティアはヤマトが手にする羽々斬を見遣り微笑んだ後に、無言でヤマトの側に付いた。
 その様子を横目で見ていたヤマトの下にオグナが駆け寄る。
 「近衛長! それが!」
 「おう、魔剣・羽々斬よ。ミコトと勇者殿の連れの童が拵えたこれで、此度こそくちなわめを滅ぼしてくれるわ」
 「あの子、本当に遣り遂げるなんて・・・」
 羽々斬から溢れ出る魔力にアタエは言葉を失う。ラティアも同じ心持であったが、それ以上にユーナが事を成し遂げた事に対する喜びが今まで以上の闘志に変わり、魔法使いの胸の内を奮わせていた。
 一同は向かう、戦場へ。
 大地を踏み鳴らし、宮殿の裾野を二股に別れ、再びひとつに群れる。
 道が開ける。戦災の後そのままの祭儀場が一行の目前に広がる。
 呑。
 視認できる黒色の魔力が祭儀場の中心から放射された。今までそれを取り囲んでいた魔力を呑み込み、大気をも弾くほどの力に兵士達が僅かに怯む。
 ヤマトが大きく息を吸い込む。
 「陣形ッッッ!!」
 言葉を切り、皆の注意を引いたヤマトは再度大気を食み、吐き出す。
 「開けえええええ!!」
 応。
 頭目を中心に獣の群れが両翼を開く。迅速に、迷う事無く、八岐大蛇を取り囲むようにして広がる。
 それに対し、大蛇は咆哮で返す。
 鼓膜を破らんばかりの轟音にも、しかし、誰もが顔を顰めながらも武器を構え耐えた。
 咆哮が収まる頃、アタエが手を振り翳す。
 「術士隊! 撃て!!」
 円周より放たれた攻撃魔法の雨が円心へ向かって降り注ぐが、八岐大蛇が纏う闇の衣により悉く無効化されてしまう。
 「今のは様子見だ! 怯むな! 衛士達の援護に回るぞ!!」
 バイキルトやスクルト等の光が祭儀場を彩る。それを見逃すはずの無い大蛇は闇の衣を立ち昇らせ、行動を起こそうとしていた。
 「やらせんよ!」
 何時の間にか大蛇の懐に潜り込んでいたヤマトは跳躍し、手近にあった八つ首の一頭に振りかぶった羽々斬を叩き込んだ。
 闇の衣と刀身が接する瞬間、柄に埋め込んだ光の玉の欠片が煌き閃光を放ち、羽々斬の周囲の衣だけを祓う。
 ヤマトが羽々斬を振り抜き、反撃が来る前にと距離を置くと、ゆっくりとその一頭が胴体を離れ地に着いた。
 兵士達が歓声を上げる。
 ヤマトは深く息を吐くと、雄叫び、羽々斬を構え直す。
 斬られた大蛇の断面は細胞を活性化させ、新しい首を作り出そうとしている。
 「今が好機ぞ! 勇者殿!」
 「わかってる!」
 アタエの合図でヤマトとラティアに補助魔法が限界まで重ね掛けされ、周囲の兵士達は大蛇の気を逸らす為に総攻撃に出る。
 狭められていく円周に大蛇は七頭を振り回し応戦するが、仲間が吹き飛ばされても戦意を失わず兵士達は前進する。いくら強大であろうが、数を相手にするには七つ首では到底足りない。
 大蛇は脅威であるヤマトとラティアを群衆の中に見失う。
 兵士を咥え、噛み砕きながらも辺りを見渡す七頭は、暫らくして胴の下に潜り込んだ二匹の毒虫に気付く。
 「遅いわ!!」
 ヤマトが魔剣を溜め胴体へ向かい突き出す瞬間、大蛇が一際大きく咆哮した。
 目にも留まらぬ速さで、闇の衣が羽々斬へと向かい幾重にも触手を伸ばす。
 「学ばぬ奴よ! 貰ったあああ!」
 ヤマトの一瞬の慢心。それが隙を生んだ。
 羽々斬へと向かう闇の衣は軌道を変え、ヤマトの両腕に絡みついた。
 「な!? が、グ・・・」
 
メリ、と鈍い音を立て、ヤマトの両腕が引き千切られる。羽々斬を掴んだままの腕が地面に落ち、ヤマトは受身の取れない身体のまま地面に放り出された。
 「ぐあああ・・・抜かったわぁ!」
 激痛を堪え、額を地に擦りながら立ち上がったヤマトは転がる羽々斬を見つけると、飛びつき柄を歯に加えた。しかし、剣の重さと腕を失った事で重心が巧く採れずに転んでしまい戦闘も儘ならない。
 大蛇の片足が持ち上がりヤマトを襲う。
 「ちょっと! この馬鹿ッ!」
 ピオリムとバイキルトで強化されたラティアがヤマトを抱え、安全な場所へと避難する。
 大蛇の足が大地を踏み貫く。振動が兵士の足元をすくい、戦場が乱れる。
 すぐに術士達がヤマトに駆け寄り、傷口を塞ごうと回復魔法を詠唱するが、羽々斬を扱える者が居なくなった事に対する不安を隠せないでいる。
 ヤマトは羽々斬を兵士に持たせ、口を自由にする。
 「く・・・オグナ、オグナの奴は居らんのか。もうあやつに頼るしかないぞ」
 「乱戦にてオグナ様の居場所が分かりませぬ!」
 「ぬうう・・・」
 何か利用できる策は無いか、とヤマトは辺りを見渡し戦況を確かめるが、もはや難攻不落の闇の衣の前に屍が増えていくだけであった。
 数名が炎に焼かれる。
 ヤマトはまだ対抗策を見つけられずに歯を食いしばっている。
 数名が噛み付かれ捕食される。
 ヤマトは堪えきれずに術士達を振り払い、兵士の持つ羽々斬の柄を咥えラティアに視線を遣る。
 「ラリホー」
 不意打ちの催眠魔法を跳ね除ける事もできず、ヤマトは地面に伏せた。ヤマトが放り出した羽々斬を拾い上げ、ラティアは八岐大蛇を見据える。
 「アンタはもう寝ていなさい。後は私がやる」
 ラティアの額に汗が伝う。
 「勇者様、策はあるのですか・・・?」
 兵士の一人がラティアに問う。しかし、ラティアは率直に頷けなかった。
 大蛇を倒せるかもしれない作戦を、ヤマトが腕をもがれてから幾度となく脳内で想像していたラティアが、確信を得るに至らない程それは無謀な策であった。
 (下手をすれば、私も、死ぬ)
 躊躇っている時間は無かった。刻一刻と迫ってくる全滅への秒読みは、そう遠くはない。
 証拠に、膨大な魔力流が八岐大蛇の周囲に練成されていた。その性質は、ラティアが最も得意とする最上級爆発魔法のそれである。
 ラティアの背中が粟立つ。大蛇の切り落とされた首はすでに回復している。
 魔法の練成を阻止しようと兵士達が歯向かっているが、色濃く纏う闇の衣に阻まれて気を逸らす事すらできないでいる。
 あの魔力で八頭が全てイオナズンを放てば、この祭儀場に居る凡その者が、まず助からない。
 仮にマホカンタで防いだところで、それ以上に戦闘を続ける余裕など無いであろう事は想像に容易い。
 「私に・・・」
 ラティアは覚悟を決める。周囲の術士達に指示を飛ばす。
 「私に補助魔法を! 早く!!」
 鬼気迫る表情のラティアに緊急を悟った数名の術士達は、持てる魔力を全て使いラティアを強化する。
 ラティアは羽々斬の柄を脇に挟み、確りと固定する。
 「アタエはいる? 近くにいるなら呼んで、いないのならいいわ」
 「はぁ、ハァ・・・呼びましたか?」
 術士達が軍師を探そうと周囲を見渡そうとした所に、ラティアとヤマトの異変を様子見に来たアタエが駆けつけてきた。
 「都合良いわ、ホント、雲の上は見放しているのか見守っているのか判ん
ないわね」
 最初から当てにしていない加護を皮肉り、ラティアはアタエに顔を向ける。
 「今すぐ、私をバシルーラで大蛇に向かって飛ばして頂戴」
 「!? 正気で・・・」
 アタエはラティアの目を見てそれ以上何も言えなくなる。それだけの覚悟が魔法使いにはあった。
 身体強化をされている事を確認したアタエは、ラティアの背後に回る。ラティアの背に手を遣り、アタエは少し躊躇う。
 「アンタ、まさか怖気づいてんじゃないでしょうね」
 「勇者様は・・・!」
 命が惜しくは無いのか、と続けるのをアタエは止めた。ラティアは既に魔力を練っている。どちらにしろ、誰かが成さねばならない事だったのだ、と苦心しつつ魔力を練成する。
 「大丈夫よ」
 魔力練成を終え、ラティアは背中越しにアタエに語りかける。
 
 「私を誰だと思ってるのよ。私は、大魔法使いよ」

 アタエの魔法生成が八岐大蛇より早く完了する。言霊に拠って紡がれた物質強制移動魔法がラティアの身体を包み込み、音速にも近づく速度で八岐大蛇に突撃していく。
 その速度で衝突すれば、いかに身体強化されているとはいえ人体が耐えることのできる衝撃ではない。ラティアが講じているのは羽々斬が突き刺さり、大蛇の胴体に自身の身体が衝突するまでの一瞬に、爆発魔法を生じさせ衝突する対象と、大魔法の余波でバシルーラを消失させるという策である。
 瞬きの間に事が終わり、瞬きの間に生死が分かれる策だからこそアタエも躊躇わざるをえなかった。

 「イオナ」

 その瞬きの合間を、ラティアは長い事飛行していた。
 物心付いてから、今までの出来事が景色として流れていく。アルスとユーナ、家族にルイーダにシェン、セラ、ナスプと出会った人々の顔が思い出される。
 (なぁ、ラト)
 場面が移り変わる。それは、このジパングにて八岐大蛇を滅した後の思い出。
 瓦礫の中、ラティアはアルス達と立ち尽くしていた。
 (俺達は、昔話の神様みてぇに全ての人を助けられるわけじゃねぇんだよな。コイツを殺した今だって、世界中のどこかで魔物が人間を殺して食っちまったりしてる)
 ジパングも、アルス達が来るまでは八岐大蛇が猛威を振るっていた。家族を奪われた者の悲しみを思って、セラが涙を流した。
 (だけど、だからってそこで諦めちゃいけねぇと思うんだ。割り切っちゃいけねぇんだ。今救えねぇなら、もっと強くなって。それでもまだ足りねぇのなら、もっともっと強
くなって)
 刃毀れし、ボロボロの剣を天に翳しアルスは言葉を続ける。
 (全部、大事な物もそうでねぇ物も救えるくらい強くなって! 強くなって! 俺らが世界を救って! それで仕舞ぇだ! こんな理不尽な死に方なんて許さねぇ! もっとたくさんの奴らが家族に囲まれて、笑って死んでいけるように!)
 シェンは拳を握り締める。ラティアは杖を抱え、セラは胸の前で十字を切った。
 (俺は強くなる! 死なねぇ! 絶対死なねぇ! バラモスを倒すまでは! だから、お前等も強くなれ! 今より、もっと強くなれ! その自信がねぇのなら、ここでおさらばだ!)
 アルスが三人を見渡す。誰一人としてそこから立ち去る者はいなかった。
 シェンが歩み寄り片手を上げ、アルスのそれと打ち合わせる。言葉は無く、二人は笑みを浮かべて意志を交わす。
 セラはアルスの前でその両手を組み合わせる。
 (私は僧になります。傷ついた貴方達を癒す為、傷ついた人達を癒す為。私は貴方達の盾になりましょう)
 アルスはラティアに顔を向ける。
 ラティアは真っ直ぐにアルスを見つめ返す。
 (今更ね。私が何年アンタと一緒にいると思ってるの?)
 (お前の口からハッキリ聞きてぇ)
 偶に見せるアルスの真面目な表情に、ラティアは茶化す訳にはいかなくなった。ラティアは不敵に笑った。
 (強くなるわ)
 ラティアはアルスに杖を向ける。
 (大賢者なんて、魔王なんて目じゃないくらいに。大魔法使いって呼ばれるくらいに)

 強くなって見せる、そう誓ったあの日の言葉と共にラティアは八岐大蛇に羽々斬を突き立てる。闇の衣が剥がれ、鋼が肉に食い込む頃合に最後の呪文が紡がれた。

 「ズン」

 ラティアの魔力が八岐大蛇の体内に放たれ、一点に凝縮されていく。
 刹那の出来事。
 大蛇が放つ筈であった大魔法の魔力をも羽々斬が吸い込み、類を見ない規模の大爆発が巻き起こる筈であった。
 しかし、闇の衣により鉄壁を誇っていた大蛇の内側のみが超爆発の直撃を受け、衣が剥がれた頃にそこから吹き出した爆風が戦場を覆っていった。
 ラティアは爆風に速度を殺されつつ地面を転がり、横たわりながら額から血を滴らせ、爆心地を見遣った。
 跡形も無かった。
 大蛇の肉片は霧散し、炭化した骨が音を立てて崩れ去る。
 兵士達は最初何が起きているのか理解できていなかった。呆然とし、目の前に崩れていく巨大な魔物をただ見送っていた。
 アタエの合図で術士隊から上げられた勝鬨が、前線の兵士達を覚醒させる。
 雄々。
 今までに無い歓声が沸きあがる。五体満足な者は飛びはね喜び、或る者は仲間に肩を貸されながらも笑いあい勝利を称えた。絶望的な闘いから生還した事の落差により情緒が不安定に成った者達は、喜びから涙を流し地に腰を下ろしている。
 ラティアは大魔法を全力で生成した反動か、今だ顰めた表情で横たわっていた。
 治癒術士が駆け寄りラティアを回復する中、魔法使いは意識を失い深い眠りに就いた。
 日が昇ろうとしていた。
 頭を覗かせた日輪は物の影を浮き立たせ、暖かな光を全てに注いだ。

 そして、ジパングの長い夜が明けた。

 

 

 

 まだ夜が明ける数刻前、ヒコは濃紫に淀む空を、縁側の冷たさを足の裏に感じながら見上げていた。
 明かりもない家の中へ振り返ると、サクヤがユーナを介抱している。若干の嫉妬を堪えながら、ヒコはそこに腰を下ろして膝を抱えた。
 村落の至る所で怪我人の手当てと避難の誘導が行われている。普段なら皆寝静まっている時分の喧騒に、ヒコは頭の中に靄がかかったような気分になる。ついさっきまで、生死の瀬戸際にいた事と、この僅かな平安が酷く歪んで感じられる。
 遠くから鬨の声が聞こえる。あれは会戦の合図だろうか、とヒコは僅かに顔を上げ大鳥居の見える山手を眺めた。
 「始まったのね」
 「・・・みたいだね」
 会話が終わる。それ以上何も言えなくなったヒコは、自分には何も言う資格が無いのだと口を引き結んだ。戦いに参加もせずに結果だけを人頼みにしている事に呆れるがそれだけで、何もできない自分の不甲斐無さを悔やむ事すら躊躇って、遣る瀬が無くなる。
 まだ、どちらの瀬に立つ事すら決めてないヒコは、無常に流れる時に歯痒さを感じている。姉が居るこの風景を完全に受け入れ過ごすか、おそらく死人が生き返っている原因であろう大蛇に立ち向かい、今の幸せを否定するのかを。
 ヒコは恐る恐る振り向き、サクヤの存在を確認する。そして、二年前のあの日、彼女が白無垢を纏い八岐大蛇の下へ行ってしまった時の事を思い出して、じわりと涙を浮かべた。
 顔を歪め泣きじゃくりながらサクヤに追い縋る自分とタケ、気丈を振舞おうとして、けれど涙を堪えられないクシナダと、拳を強く握り締め感情を押し殺しているミコト。宮殿の兵士数名がサクヤを出迎え、近所の住人も嘆き悲しんでいた。ミコトに腕を掴まれサクヤから剥がされた自分とタケが泣き喚いてる中、サクヤは振り返り近づき、二人の頬に片方ずつ手を添えた。
 「・・・っ!」
 思い出す事を拒否したヒコは、目元を拭い鼻水を啜った。
 この思い出がある事実が、今側に居るサクヤの存在を危うい物にしてしまう。例え、邪法にて蘇った姉だろうが、ヒコにはサクヤは姉以外の何者でもない。血の繋がった、在りし日のままの優しい姉である。
 (にせ者なんかでも、ない。おねえちゃんは、確かにおねえちゃんなんだ)
 ただ、少し。その時、少しヒコは自分の気持ちを確かな物にしたくて口を開いた。それは、目の前の姉を僅かに疑う事であったが、開いた口は塞がらなかった。
 「・・・おねえちゃん」
 「ん、なあに、ヒコ?」
 ヒコは緊張で喉が痙攣するのを抑えて、深呼吸し、恐る恐る言葉を紡いだ。ゆっくりと、一文字一文字を探りながら。
 「昨日ね・・・夢を見たんだ」
 サクヤの方を向き、ヒコは顔半分を抱えた膝元にうずめる。
 「あたしがいて、タケとお母さんがいて、父さんがいて、でも・・・・・・おねえちゃんが、どこにもいない・・・そんな夢」
 喋りながら、ヒコは込み上げてくる嗚咽感を我慢した。サクヤは黙ってヒコの言葉に耳を傾けている。
 ヒコは大きく息を吸い込んだ。
 「おねえちゃんはね・・・し・・・しっ! しん、っ、ぅ! 死んじゃってぇ! ど、どこにも、どこにもいなくなって! ぅ、ぁ、もう、もう、二度と! 会えなく、なっちゃう! なっちゃったの!」
 堪えきれずに涙を流しながら、ヒコは途切れ途切れ続ける。
 肩を震わせ、自分で口にしてしまった言葉を振り返り、さらに涙を溢れさせる。姉を失ったという事実を言葉にする度に、ヒコの心が軋み悲鳴を上げる。
 「タケも、あたしも、お母さんもっ! 皆悲しくて! いっぱい、いっぱい泣いて! 父さんは違うけど! でも同じくらい・・・悲しいのあたしには分かって! 皆が、悲しいのが、嫌で! でもっ! どどうしようもなくてぇ!」
 ヒコはもう自分でも口が動くのを止められなかった。
 理不尽に訪れた姉の死から、今までの積もった想いを吐き出す。ヒコの脳裏に浮かぶのは、その日から葬式を挙げる事もできずに悲哀に沈んでいた、この家の風景。
 「・・・でも、しばらくしたら涙もでなくなって。そのうち・・・皆も泣きやんで・・・・・・」
 ヒコは言葉と共に自分を落ち着かせていく。体液で濡れた膝部の布を握り締め、僅かの生傷走る自分の拳を見つめた。
 「悲しいのに、おねえちゃんが、いないのに! 生きているのは続いていくんだ。あたしたちは、それでも・・・・・・それでも生きていかなくちゃいけなくて・・・」
 ヒコの身体をサクヤがそっと抱きしめた。
 サクヤの胸の鼓動が、温もりが、息遣いが伝わってきて、ヒコはあまりの鮮明な生に再び涙を溢れさせる。
 ヒコは目の前の現実に、どう疑えば良いのか分からなくなって声を上げる。あの日の自分のように。
 「ヒコ」
 サクヤの両手がヒコの頬を包む。顔を上げさせて、サクヤは潤んだ瞳で妹を見つめる。
 「その通り、その通りなの。誰かが亡くなっても、皆の人生は続いていて、生きて、生きて、年を取って、結婚して、子供ができて、また誰かが亡くなって、その繰り返し」
 ヒコに感化され、サクヤの頬に涙が伝う。
 「例え夢でも、私がそうなったとしても、ヒコは生きていかなくちゃいけない。悲しい事を受け止めて、それ以上に楽しい事を見つける為に」
 サクヤはヒコを強く強く抱きしめる。
 「例え、例え夢でも、悪い夢でも」
 自分とタケを最後に抱きしめた瞬間のヒコの記憶と、現在が重なる。
 「お姉ちゃんはいつでも見守っているよ。ヒコの事、タケの事、お母さんやお父さんの事、皆がお爺ちゃんお婆ちゃんになって、またいつか会う時まで」
 少し身体を離し、サクヤは真正面からヒコに微笑む。
 ヒコは涙で前が見えなかった。涙で歪む視界に映るサクヤをいかせてはならない、と考えたが、ついにその手が伸びる事はなかった。
 
 「強く生きて、夢の中のヒコ。お姉ちゃんの事もいつか思い出として笑えるようになったら、それで、悪い夢はおしまい。きっと幸せに、なってね」

 号。
 宮殿の方角から轟音と閃光が漏れてきた。
 ヒコは目が眩み、暫らくして勝ち鬨が聞こえてきた頃、漸く視界を取り戻した。

 そこに、サクヤの姿は無かった。

 ヒコは理解した。ここに来てやっと理解した。
 それでも、再び会えた姉は確かに本物だったと、その事実だけは否定せずに胸の奥にそっと大切に仕舞った。また、何時の日か会える時まで、と。
 喪失感は拭えずに、ヒコは次第に顔を歪めていく。大粒の涙は滂沱と流れ落ち、ヒコは赤子のように大声を上げ喚いた。姉との思い出を反芻しながら。
 朝日が差し込んできて、瞼を射されたユーナが目を覚ました。のそりと回復させた身体を起き上がらせて、一人、孤独に泣いているヒコを見つける。
 「・・・どうしたんだよ、おまえ」
 ユーナの声に気が付き、ヒコはぐしゃぐしゃに濡れた顔を向ける。嗚咽は止まず、そこに人の温もりがある事を知ったヒコは、ユーナの胸に飛びつきすすり泣き始めた。
 「おまえ・・・・・・っ」「ちょっと!」
 顔を埋めたまま、ヒコはユーナの言葉を制止した。
 「あとちょっと・・・このままでいさせて・・・・・・おねがい」
 ユーナはその必死さに圧され、観念して胸を貸す。ヒコは人の身体の温かさを感じながら、ひとつずつ、己の中の気持ちを整理していく。
 弱い自分のまま泣くのは、これで最後、と決めて。

 

 

 

 

 「最後に確認するけど、本当に良いのねユノ?」
 「しつこいなぁ、ちょっと行って終わらせるだけじゃないか」
 緊張感の無いユーナに、ラティアは額を押さえて溜め息をつく。ユーナは仕方なく真面目な表情を取り繕った。
 「それにこれは僕の為の試練ってことにしてる。ここでラティアに再会できず死ぬようなら、僕はそれまでさ。まぁ、そう簡単に死ぬ気はさらさら無いけどね」
 「ったく・・・もう」
 てこを用いても動きそうに無いユーナの意思を量り、ラティアは折れる。
 ジパングの港村、波止場の桟橋の上でユーナとラティアが向かい合っている。波は程好く、沖の風が十分である事を示している。
 ウミネコが急かすように鳴いている。周囲には見送りの者達が垣根を作り、ユーナは桟橋の強度を心配して少し微笑んだ。
 ユーナは、このどうしようもなく下らない妄想をサクヤと分かち合えたら、と思い浮かべて、笑顔のまま溜め息をつく。
 彼女にもう二度と会えない事を知りながら、見事に晴れ渡る空を見上げる。
 このジパングに起きていた事の子細を聞かされたユーナは、最初驚きはしたものの、自分でも驚くほど冷静に事情を飲み込んだ。
 サクヤが、故人であり八岐大蛇の作り出した幻だったと知らされても、ユーナはどこか穏やかな気持ちで全てを受け入れた。例え幻だとしても、彼女が自分にくれたものは確かにここにある、とユーナは胸の前で拳を握る。
 しかし、別れの言葉さえ言えなかった事だけが彼の少しの心残りであった。
 「それで、随分悩んでたようだけど、結局何にするか決めたの?」
 「うん、今でもちょっと迷ってるけど・・・やっぱり僧侶かなって思うんだ。ラティアと二人じゃ、攻撃魔法は任せた方がいいし、ランシールの時みたくいざって時に上手く治癒ができないんじゃ大変だからね」
 ラティアは戦士から僧侶へ転職したセラの事を思い出して、笑みが零れた。
 「いいんじゃない? 私としても助かるわ。まともに回復してくれるのが一人はいないとね」
 「む、緊急じゃなければ、僕だって結構やれるものなんだけどな」
 「はいはい、そういうのはさっさと転職してきてからいくらでも言いなさい」
 口を尖らせるユーナに手をひらひらと返すラティアは、人垣の中から小さい影が幾つか出てくるのに気が付いた。
 そこのけそこのけ、と村の子供達が這い出てくる。
 男の子が二人に、背の高い女の子に、まだ彼らよりも幼い女の子。
 子供達を認めたユーナは驚きを表し、幼い女の子へ駆け寄りその小さな身体を抱きしめた。
 「よかった・・・! ヒナちゃん、生きていて、本当に!」
 失ってしまったと思っていた筈の希望が戻ってくるのを、ひしひしと感じてユーナは思わず目尻に涙を浮かべた。そして、携帯袋から祭儀場跡で拾った櫛を取り出し、ヒナの手に握らせた。
 「あ、なくなったとおもってた、ヒナのくし。おにーちゃんみつけてくれてたの?」
 ユーナは頷く。ヒナの手から伝わる温度から、生を実感して。
 「ありがと、おにーちゃん」
 「しっかしみずくさいぜ兄ちゃん! おれらのことわすれて行っちまおうとするんだからよ」
 「いや、アクトお前このジパングの状況じゃ、そんな余裕ないのくらいわかれよ」
 利発そうなフタヤがアクトの頭を小突く。アクトははっと気が付いたようで照れ笑いながら、包帯の巻かれている腕を掻いた。
 よく見ると、他の子もからだのあちこちに軽い傷が窺える。掠り傷程度を治療するほど、ジパングの法術士がいない現状が見て取れる。
 ユーナは子供達を手招きで呼び寄せた。
 「どうしたんですか、おにーさん?」
 「おでこに少し切れた痕があるね、ちょっとじっとしてて」
 アスハの額に手をやり、ユーナは丁寧に練った魔力で生成した回復魔法を用い、少女の傷を綺麗に消してやった。
 「君達もおいで。遊んでやれなかったお詫びじゃ、ないけれど、皆には怪我なく元気でいてほしいから」
 アスハにヒナ、アクトにフタヤを治癒してやり、満足した様子でユーナは微笑んだ。
 「さて」
 荷袋を抱え直し、ユーナは立ち上がる。
 「それじゃあ、そろそろ行こうかな。アクト、フタヤ、アスハにヒナちゃんも、元気でね」
 「おう、兄ちゃんもな!」
 「あの、傷、治してくれてありがとうございました。僕も早くお兄さんみたいに魔法を使えるように頑張ります!」
 「またいつか、ジパングにきてくださいね!」
 「ばいばーい」
 子供達に手を振り、ユーナはラティアの方へ踵を返す。魔法使いは穏やかに幼馴染を見守っていた。
 桟橋を挟み、船が二隻。
 片方はラティアが乗る予定の船、もう片方は聖都ダーマへ向かう船。ユーナはダーマ行きの船の渡し板に足を掛ける。
 
 「ユウっ! ラティアさんっ!!」

 ここ数ヶ月聞きなれた声が聴こえ、ユーナは桟橋の方へ振り向く。
 いつの間にか裂けた人垣を突き抜けて、荷袋を担ぎ旅装を整えたヒコが息を切らせながら、ラティアとユーナの下に駆けつけて来た。
 肩で息をしながら、呼吸も整わない内にヒコは口火を切った。
 「あたしもっ! ハッ・・・ハァ! い、行くからっ!」
 不審を顔に出そうとしたラティアを、ヒコは素早く手の平を見せ制止させた。
 「父さんは・・・家族はせっとくしてきました! こうやってじゅんびできたのがしょーこです!」
 確かな意志を瞳に宿し、ヒコはラティアを見つめ返す。暫らく厳しい表情で視線を交わしていたラティアは、ヒコが本当の事を言っていると信じ、警戒を解き腰に手を遣った。
 「じゃあ聞くわよ、ヒコ、アンタは何の為に闘うの?」
 ヒコは迷わなかった。ラティアの問いに、自然と口が動いた。二年前から、ずっと持ち続けていたヒコの想い。
 「あたしはっ! あたしのように大切な人を失う人が、ひとりでも多くいなくなるように! たたかう! 闘う! 強くなる! もっとずっと! 強くなって! このせかいを、救う!」
 ヒコの腰の短剣が揺れる。それは、父ミコトがヒコに持たせた護り刀である。
 ヤマタノオロチが滅びて数日の間中、父を説得し続けてきたヒコの根気に折れたミコトは、予め造っておいた一振りをヒコに渡した。まるで、娘が再び旅に出る決意をする事を知っていたかのように。
 「だから! あたしもいっしょに! 連れてってくださいっ!!」
 「おまえ・・・」
 ユーナはラティアを見遣ると、ラティアはユーナに視線で言葉を投げた。
 それにユーナも視線で応えた。にやり、と笑みを浮かべて。
 「おい・・・・・・ヒコ!」
 ユーナの呼びかけにヒコは下げていた頭を上げる。ユーナは甲板へ下り立ち、船の縁に凭れて会話を続けた。
 「残念だけど、僕はこれからダーマまで転職しに行かなくちゃならない。ちょっとお前の相手をしている暇はないんだ」
 「え・・・あ・・・」
 ヒコの位置からではユーナの表情が逆光で見えない。ユーナが現在笑いを堪えるのに必死になっている事も全く気が付いていない。
 語気が弱ってきたヒコの表情が翳りそうになる前に、ラティアが杖で桟橋を突き注意を向ける。
 「だから、アンタはこっち。私と一緒に修行の旅へご案内。言っておくけど、私は生半可じゃないから泣き言なんて聞こえた日には、すぐに放り出すわよ? そこのところ覚悟しておきなさいよ」
 「あ・・・ラティアさんっ! 大好き!」
 ラティアの胸に飛び込み、ヒコはまるでこの澄み渡る空のような笑顔を見せる。そしてユーナの方へ顔を向け、舌を出して顔を顰めた。
 「ユウはきらい。さっさといっちまえばーか」
 「おまえなぁ・・・」
 頬を引き攣らせるユーナを他所に、船の船員が渡し板を回収する。係留索が解かれ、いよいよ出航の気配がしてきた。
 ラティアは桟橋から、ユーナに向かって手を翳す。
 「ユノ! 期間は目安で一月! 合流する場所はムオルって町! 分かんなければ現地の人に聞きなさい! 多分私達の方が先に着いていると思うから! いなくても必ずそこに行くから待ってなさいよ!」
 「わかった! 二人とも無事で!」
 親指を立て了解を示すユーナに、同様にラティアとヒコも拳を突き出し応える。
 船が帆を張った。風をゆっくりと受けて波を割り始めた船体は陸を離れ進み行く。
 新たな旅路をユーナは行く。暫しの別れを惜しむ事無く、希望と決意を胸に遠ざかる二人の姿を見送る。
 
 「また、一月後!!」


 
 冒険者を乗せて船は行く。
 目的地は、世界中の冒険者が集う世界最大の都市、聖都ダーマ。
 
 
 
 





戻る
inserted by FC2 system