7.5

 

 ユーナが旅立つ数日前、八岐大蛇が倒された翌日の深夜。兵士も市民も皆寝静まっている中、ラティアは一人、祭儀場跡へと足を運んでいた。
 新月は過ぎ月は弓なり、未だ足元覚束ない中を火炎魔法の灯火を頼りに、魔法使いは歩を進める。
 炎がラティアの厳しい表情を露にする。強大な魔物の危機が去ったというのに、まるで八岐大蛇がまだ生きているかのようにも受け取れる程、ラティアの表情は固い。
 薄明かりの中広がる祭儀場は、未だ血肉染みたまま、あの戦争は幻では無かった事を物語っている。
 腐臭が僅かに立ち込め、羽虫達がやれそれと活動を始めている。ラティアはその中を、若干の不快を覚えながら進む。
 目的地は大蛇が焼失してであろう付近。そこに辿り着くと、ラティアは辺りを炎で照らし見渡した。
 何かを探しているかのように。

 「矢張り来たか。流石だ魔法使い、褒めて遣わす」

 生温い粘着質の物体に背筋を舐められるかのような悪寒に怯む事無く、ラティアは額に玉のような汗を浮かべて、そこに身体を向ける。大蛇の踏み付けにより、隆起した大地の頂上。
 悪夢が去った筈のこの地に、そこに悪魔の王が鎮座していた。

 「魔王・・・・・・バラモス!」

 「おっと」
 続けて言葉を繋ごうとしたラティアの身体に、分厚い魔力の壁が叩きつけられる。耐性の無い者ならば潰し殺しかねない魔力の質量に、ラティアは呼吸を乱す。
 「言いたい事は分かっているぞ、魔法使い。貴様は、何故俺が生きて居るのか、と問う。そうだな」
 咳込みながらもラティアはバラモスから視線を外さない。少しでも他所を見ようものなら、目の前の魔王は次の瞬間に自分を帰らぬ者にしているに違いない。
 「忘れたか、言っただろう。力が足りぬ、と。血肉を喰らい、魔力を浴び、死の禊に拠って俺は再び現世に顕現した。最後の鍵は、大蛇の肉と貴様の魔力よ」
 ラティアは自分の考えが正しかった事を知る。あの爆発の瞬間、闇の衣が一点だけ綻んでいた場所、羽々斬にて結界を解いた自分の居た所に向かって、爆炎が向かって来なかった疑惑の真相を知る。
 全ては、目の前で邪悪にケタケタと嗤う魔王の為の儀式でしかなかったのだ。
 「道理で、大蛇が魔法を使ったり、闇の衣なんか出したりする筈だわ」
 「おかしいとは思わなかったのか」
 「生憎、そういう事に疑問を感じている暇があったら魔力を練っているわ」
 「そいつは結構!」
 大口を開けて高笑いするバラモスに対し、ラティアは事態の打開策を練っていた。魔力の練成から魔法の生成までは悠長にはしていられない。気付かれたその時から、一瞬を争う殺し合いが始まる。
 一撃にて必殺、その手段が見つからない事にラティアは焦る。
 「ああ、それと」
 バラモスはピタリと哄笑を止め、笑みはそのままに目を細めラティアを視線にて射止める。
 「理解してはいると思うが、もう、貴様の魔法如きでは俺は滅ぼせんぞ」
 ラティアは開きかけていた手の平を握りなおした。噛み締めた奥歯が軋む。
 「あの剣にも、もう不覚はとらん。あのような物、三度も貴様のように使えば使い物にならなくなるぞ。二人一組で行使せねばならんのも致命的だな。リムルダールの賢者だろうに、満足にあれを扱えるのは」
 「それで」
 ラティアは痺れを切らしてバラモスの会話を断ち切る。バラモスは怪訝そうに眉を顰める。
 「単刀直入に、やるのやらないの?」
 「我慢の足りない奴だ。どうした、殺して欲しいのか」
 魔法使いと魔王は暫らく無言で睨みあう。一触即発の空気が張り詰め、辺りの生き物達が鳴りを潜める。
 下弦の月だけが、両者の拮抗を恐る恐る覗いていた。
 「ふん、今日は顔見せだけだ」
 静寂を破ったのは魔王バラモスだった。ガラス細工のような空気が音を立てて壊れる錯覚を感じたラティアは、そこで漸く己の衣服が汗を大量に吸い濡れている事に気がついた。
 「貴様の命なぞ、何時でも毟れる」
 バラモスは顔に手を当て、口角をより吊り上げ笑みを浮かべる。
 「ああ、貴様を見ていると、思い出すわ。痛かったなあ、あの時の事」
 開いた口内は血の色にも似て、端から漏れる呼気に火の気が混じり出した。間に皺を寄せ、バラモスは自身の周囲に闇の衣を広げ纏った。
 闇を纏い、絶対なる力と威厳を持って魔王は人間の魔法使いを威嚇する。
 「俺を殺したその業、簡単に償わせると思うか。貴様と貴様に組する虫めらは、絶望の底で、酸が肉を溶かすようにじわりじわりと嬲り殺しにしてくれるわ」
 八岐大蛇が咆哮の比ではない。音圧で、図体で脅すのではない、魔王が魔王と呼ばれるに相応しい威圧。本能から喚起される恐怖。
 ラティアは今の一瞬で、何度死を思ったか知れなかった。
 「それまでに首を洗って待て置け。失望させるな、魔法使い。次に相見える時、その足掻き様で此の俺を愉しませて貰うぞ」
 そう言い残し、バラモスは何処とも知れぬ闇の中へと融けて行った。
 森の生き物達がざわめきを取り戻した頃、ラティアは地に膝をついた。宵の風は冷たく、汗で濡れた衣服から温度を奪っていく。
 ラティアは何一つできなかった己に悔いた。
 絶対の自信を持っていた自分の力を持ってしても、今のバラモスには到底及ばない事をラティアは痛感した。
 「ふ」
 ラティアの口から渇いた嗤いが漏れる。
 「ふ、ふふ・・・面白いじゃない。バラモス、魔王バラモス」
 大地に杖を突き刺し、支えに魔法使いラティアは両の足で大地を踏みしめる。自信を折られるのは慣れている、そこから這い上がる術はひとつしかない事も了解している。
 「この私を、今、ここで殺さなかったことを後悔させてやるわ・・・」
 バラモスが消えたであろう空間に杖先を向けて、今は遠吠えでしかない台詞を、新たに組み上げた自信を持って解き放つ。
 「次に吠え面かくのは、アンタよバラモス」
 ラティアは踵を返し来た道を引き返す。僅かの悔しさが魔法使いの周囲に魔力を渦巻かせる。
 苛立ちを表しながら、ラティアは思案していた。
 魔王バラモスの復活を告知すべきか、そうすべきではないかを。
 かつて地上世界に君臨していた畏怖の対象が再来したとなれば、世界中の混乱は免れない。むしろ、大魔王ゾーマの存在が明らかになった今、バラモスが現れたとなれば火に油を注ぐようなものではないのか、とラティアは思う。
 しかし、脅威が迫っているのを知っているのと、不意に脅威に晒されるのとでは心の持ち様が全く異なる。
 問題は、この世界の人間の心の強さ。
 どれだけの絶望に苛まれようと立ち上がることのできる不屈の心と、そこから前に進もうとする勇気。ラティアはそれを世界中の人間に望む事の可否を苦悩する。
 (ああ、駄目だ。私の考えでは私の理想通りの都合のいい答えしか出てこない)
 希望と現実はそう簡単に歩幅を合わせない。恐怖に打ちのめされて、前を向く事すらできない人達が居るのを忘れてはいけない、とラティアは自分を戒める。
 それだけの圧倒的な存在が、再びこの世に姿を現したのだ。
 ラティアは悩む。バラモス復活を知っているのは己だけだという事に。
 ラティアは悩む。世界情勢を揺るがすであろう情報を左右する立場にある事に。
 (一分も間違いがあってはならない)
 人の勇気を信じるか、人の心に暫らくの休養を与えるか、世界を変える二者択一に、ラティアの胃が悲鳴を上げる。
 

 

 そして、村落に辿り着く頃、ラティアは魔王の存在を胸の内に留める事に決めた。
 
 
 
 
 





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